今日は河童忌。ネットの青空文庫で、『湖南の扇』『たね子の憂鬱』『死後』など目につく小品を読んでみるが、どれもぱっとしない。ふと思いついて、萩原朔太郎の追悼文『芥川龍之介の死』を探して読むと、これは面白かった。
昭和2年の芥川の自死の直後に書かれたもので、詩人らしいレトリックのうちに芥川を思う真情がつづられていて胸を打つ。芥川の死の直前に、二人の文学者の間に火花を散らすような交流があったことには驚いた。
朔太郎による芥川の理解は正確であるように思う。アフォリズム集『侏儒の言葉』など本当につまらない。朔太郎が、こんなものを書く芥川を「敵」として自分の真逆の位置にいる文学者(小説家、評論家)であると考えるのはもっともだ。
しかし、『郷土望景詩』を読んでたまらずに寝巻のまま朔太郎の家に駆け込んできて感激を伝える芥川の姿に、朔太郎は揺さぶられる。朔太郎は、芥川の「詩」を求める心は本物であると認めつつも、けっして「詩人」ではないと指摘して、芥川の怒りをかう。自ら「詩人」を任じていた芥川にとって、自分が信頼、共感する詩人からの批判は痛いものだったと思う。
朔太郎は、芥川の自死に自らの命をかけた芸術の完成という行為を見て、芥川が本物の詩人であることを実証したという。芸術至上主義の英雄だったとも。
ところで、芥川の『沼地』を久しぶりに読み返すと、短いけれど良い作品だった。展覧会で無名の画家の風景画に出会って圧倒されるという話だ。画家は独自の表現をつかむために発狂してしまったのだという。
ただ、無名の芸術家が努力のうちに狂気に陥り芸術的達成を手に入れるという凡庸な発想が、生真面目な芥川らしい。朔太郎なら、詩人に憧れる小説家の作品と切り捨てたかもしれない。