大井川通信

大井川あたりの事ども

虚子名句二題

一年半ばかり前、日本近代文学会の企画展で、近代詩人たちの自作朗読を聞く機会があった。急ぎ足での訪問だったので、じっくりとは聞けなかったが、やはり朔太郎の声には感激した。初老のやんちゃなオジサン風なのがいかにも朔太郎らしかった。

三好達治の「いしの上」は一番好きな詩なのだが、地味な朗読にはそこまで心を動かされない。意外だったのは、高浜虚子の朗読に強く魅かれたことだ。あらためて自分が虚子好きなのに気づいた。だから先日の読書会で、虚子の名句集を読めたのはうれしかった。何度も反芻してきた名句を二つ。

 遠山に日の当りたる枯野かな

周囲は夕闇がせまる枯野だが、遠くの山並みの一つは夕日をうけて輝いている。こんな情景には、実際に何度も出会ってきて、そのたびにこの句を思い出してきた。いやむしろ、この句に教えられた認識の枠組みによって、広々とした夕景の中から、この情景の対比を切り出していたのかもしれない。それは次の句も同じ。

 流れ行く大根の葉の早さかな

小川をのぞき込むたびに、そこを思いの外の速さと滑らかさとですべる落葉などに視線を吸い寄せられる。この句の導きで、何か流れるものを探している自分がいるのだ。

ところで、前者の句は、国木田独歩の『武蔵野』に引用されていた記憶があってのぞいてみると、実際には蕪村の「山は暮れ野は黄昏の薄かな」だった。こちらは山と野で明暗のコントラストが逆転して、淡いものとなっている。

同じく『武蔵野』には、こんな記述があった。「大根の時期に、近郊を散歩すると、此等の細流のほとり、到る処で、農夫が大根の土を洗つて居るのを見る」

後者の句は、視覚的な驚きばかりではなく、こうした農村の姿を思いやってのものなのだろうが、今ではその生活的な背景は全く失われている。