大井川通信

大井川あたりの事ども

山村暮鳥の詩を読む

忌日をきっかけにして文学者の作品に親しもう、と計画したもののこれは意外と難しい。先月でも、白秋(4日)も一葉(23日)も三島由紀夫(25日)もスルーしてしまった。

今日12月8日は、山村暮鳥(1884-1924)の命日だから、詩集を取り出して読んでみた。今は簡単に手に入る暮鳥の詩集などないが、僕の手元には山村暮鳥全集第1巻(詩集編)がある。父親の遺した本の一つだ。父からとくに暮鳥が好きだという話は聞いたことがないが、朔太郎とほぼ同世代のこの詩人に親しんでいたのは間違いないだろう。

とても全編に目を通すことはできないが、ひろい読み程度でも、この多産な詩人の初期からの才能のきらめきと「だんだん詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない」と書いた晩期にいたる詩への覚悟をうかがうことができる。

ちなみに、「おうい雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずっと磐城平(いわきたひら)の方までゆくんか」という有名な短詩を含む『雲』は生前最後に編まれた詩集で、暮鳥の死後に出版されている。彼にとって、「下手」でうれしくなるような部類の詩なのだろう。

今回は、次の小品が目にとまった。クールでモダンな感覚。こういう作品に出会うと、もっといいものがあるのではないかという期待感が増す。

 

わたしはひねもす/あみをなげる/あみはおともたてないで/しづかにおりる/めにみえないあみ/わたしはあみのなかにゐる/それをひきよせるので/どこかで/おほきなてがうごいてゐる (「網を投げる人」)