今日は、大手拓次(1887-1934)の忌日。昔からその存在にあこがれていた詩人を、昨年は初めて詩集を読み通して、読書会で議論し、前橋の文学界で大手拓次展を見ることもできた。
年度初めであわただしい中、ネットで目についた詩を引用して、追悼する。分かりやすく親し気な詩だが、拓次の作品の中で優れたものとはいえないだろう。ただ、詩人とつきあうには、こうした自分なりの入り口を見つけることも大切、と言い訳する。
河原の沙のなかから
河原の沙のなかから
夕映の花のなかへ むつくりとした円いものがうかびあがる。
それは貝でもない、また魚でもない、
胴からはなれて生きるわたしの首の幻だ。
わたしの首はたいへん年をとつて
ぶらぶらとらちもない独りあるきがしたいのだらう。
やさしくそれを
わたしの首は たうとう風に追はれて、月見草のくさむらへまぎれこんだ。
蛙にのつた死の老爺
灰色の蛙の背中にのつた死が、
まづしいひげをそよがせながら、
そしてわらひながら、
手をさしまねいてやつてくる。
その手は夕暮をとぶ蝙蝠のやうだ。
年をとつた死は
蛙のあゆみののろいのを気にもしないで、
ふはふはとのつかつてゐる。
その蛙は横からみると
まへからみると二つの眼がとびでて黒くひかつてゐる。
死の顔はしろく、そして水色にすきとほつてゐる。
死の