大井川通信

大井川あたりの事ども

『日本近代文学の起源』(柄谷行人 1980)をめぐるメモ 2007.10.20作成

柄谷行人の本を新著で読み出したのは、83年の『隠喩としての建築』からだと思う。その頃から柄谷は、一作ごとに新しい「問い」を生み出す同時代のカリスマ的な批評家と目されていたし、僕自身も、90年頃までが柄谷をもっとも熱心に読んだ時期だった。今回読書会で『日本近代文学の起源』を久しぶりに手にとってみて、まず驚いたのはその出版年が80年であって、哲学的・形式的な議論に集中する80年代の仕事と、時期的に近接しているということだった。柄谷を読み始めたばかりの学生時代の僕には、この本や『マルクスその可能性の中心』など70年代の仕事は、ずっと以前の著作というイメージがあったのだ。また時期的に近いばかりでなく、内容的にも、その後と連続する部分が多いことが新たな発見だった。

『隠喩としての建築』の表紙カバーには、こんなコピーが書かれている。「柄谷行人はたえず移動する。その移動の容赦ない果敢さと、非方向性・非中心性が読者を魅惑し不安にする。」これこそ同時代に周囲が柄谷に期待するイメージだったのだろう。しかし80年代以降の「最新の柄谷理論」の着想の多くは、70年代に書かれたこの本の各所に無造作に散りばめられている。

大雑把に言えば、柄谷はこの著作で、日本近代文学(もっと広くには近代の「遠近法」)が、それらを構成する「風景」や「内面」とともに、ある転倒の上に成立していることを繰り返し指摘する。この転倒がどのような制度(言文一致等)によってもたらされたのか、この転倒の隠蔽によって抑圧されたものは何か、という問いをめぐって論理は様々に変奏される。(その論述には、飛躍や断絶、時にはほころびも目立っている。)

読書会の中で、柄谷は近代(文学)の批判ばかりに終わっているという発言があったと思うが、柄谷は、近代の成立の条件を吟味するという「脱構築」を実践しているのは明らかであって、近代にダメだしをしているわけでない。たとえば国木田独歩の文学は、近代の成立=転倒を映し出していることによって評価される。また、柄谷がこのような批判の中で出口を失っている、という発言は、80年代の脱構築の徹底=「形式化」をめぐる仕事のイメージに引きずられたものであって、この著作に関する限り、転倒に関わる外部の事物を自在に語っている点で、さほど息苦しさはないと思う。

しかし確かに、近代に関する脱構築の鮮やかな実践は、外部を積極的に語ることを禁じ、自らを積極的に内部に閉じ込めるという形式化の徹底(『内省と遡行』等80年代前半の仕事)にまっすぐにつながっているのはまちがいない。

85年の『批評とポストモダン』では、脱構築がブームとなったポストモダンの批評に対して、もともと構築というものが希薄な日本において単純な脱構築は的外れであり、批評家は構築と脱構築の「一人二役」をしなければならないと宣言する。これは表面的には『日本近代文学の起源』への自己批判とも読める。しかし、この本でもすでに、鴎外の歴史小説への転回について、その近代文学への嫌悪がいわば「自然過程」であることが指摘され、日本の風土では脱構築こそ支配的な制度であるという視点が出されているのだ。(P197)

86年の『探求Ⅰ』では、柄谷は「態度の変更」を語り、あからさまに「外部」を「他者」として語り始める。これ以後、他者は柄谷のキイワードとなるのだが、文学に関しては、坂口安吾のエッセイ「文学のふるさと」の中で「突き放す」何かこそ他なるものであるという認識が語られるようになる。しかし、この重要なエッセイは、すでに『日本近代文学の起源』の中であっさりと触れられており、ここでは、突き放すものは文学の成立が抑圧する「過剰性・混沌」という位置を与えられている。(P158)

89年の『探求Ⅱ』の冒頭は、こう切り出される。「私は十代に哲学的な書物を読みはじめたころから、いつもそこに『この私』が抜けていると感じてきた。」柄谷はここから、他ならない「このもの」を一気に指し示すものとして固有名に着目し、分析をすすめていく。近代文学脱構築を主題とする『日本近代文学の起源』には、さすがにこの観点は触れられていないと思うかもしれない。しかし、柄谷はパスカルの言葉を引いて、この『探求Ⅱ』の問題意識と響きあう言葉を二度書きつけている。近代科学によって見出された均質空間を前提にして初めて「私はなぜここにいて、あそこにいないのか」という問いがうまれるのだ、と。(P14、68)

このように見てくると、柄谷行人の移動とは、過去のテクストにおける重点のわずかな変更というべきかもしれない。(数学から、哲学、論理学へと語り口の華麗な展開を取り除いてしまえば。)だとしたら、柄谷を読むため必要なのは、理論的なパーステクティブ以上に、このわずかな重心移動を決定的な変更として読むような繊細さなのだろう。