大井川通信

大井川あたりの事ども

『田園の憂鬱』 佐藤春夫 1919

読書会の課題図書。近代文学の名作としては、珍しく共感できず、良いところをみつけるのに苦労する作品だった。作者とおぼしき男(青年らしいのだが、初老くらいの雰囲気)とその愛人(これも古女房みたい)とが武蔵野のはずれの古民家で始めた生活の記録である。

国木田独歩の『武蔵野』を読んだとき、自分の「大井川歩き」の参考書になると思った。話の設定から、この本も、と思ったのが期待外れの原因かもしれない。主人公は、自分の選んだ田園の村が、独自の自然と生活と人々の歴史を持っていることを、一切顧慮しないし、尊重もしない。自分が独りよがりの介入者であることの自覚もない。

自分の目に映る村人の姿を表面的に、実に冷ややかに書きとめるだけだ。自然に対しても、庭の樹々の「額縁」からのぞく風景を切り取って、そこに勝手に美を見出すといった具合だ。この冷酷で自己中心的な視線は、同居する愛人にも注がれる。女優をしていたらしい彼女の都会への思いを冷然と切り捨て、がみがみと小言をいう。まったく若さが感じられない。

主人公は、始めから神経衰弱気味の「憂鬱」を背負ってこの物語に登場するが、おそらくこの小説が描かれた時代には、それが何らかの価値を帯びた属性だったのだろうと思う。このころの小説には、やたらに「不吉なかたまり」とか「退屈」とか「くったく」とかのマイナスの感情がなんの説明もなく、主人公の気分として前提にされていることが多い気がする。

おそらくこの当時の社会情勢を反映した「気分」だったり時代の先端の「心情」だったりしたのだろうが、僕は若いころから、その意味合いがよくつかめなかった。

ちなみに、コロナ禍の今になって、なんとなくそれが想像つくようになった気がする。つまり、意識は高く、知識があっていろいろやりたいことはあるのだが、しかし現実にはできなくて不自由を強いられているという金縛り状態が、当時の「知識人」の一般的なありようだったのではないか。

僕の生きてきた60年代以降、人々ができることや楽しめることはそれなりに拡大してきたので、欲望とその実行、知識と行動との大きなギャップを経験したのは今回が初めての気がする。なるほど、今は「憂鬱」が蔓延している。

小説の後半で、主人公の幻覚や幻聴が明らかになり、そこからの特異な狂気の描写がこの小説の救いになっている。ラストで、「おお、薔薇、汝病めり!」という言葉が繰り返され、それが強迫的に追いかけてくる、というところには真に迫ったリアリティがあった。