大井川通信

大井川あたりの事ども

映画『顔』 大曽根辰夫監督 1957

松本清張の原作は、前年の1956年(昭和31年)に発表された短編。短編集の表題作でもあって、鮮やかな印象の名作である。

ところが、映画の方は、主人公を女性にしただけでなく、ほとんど別の作品といえるほど設定もストーリーも乱暴に変更されており、いろいろと破綻の目立つ作品だった。

主人公が犯罪の目撃者によって追いつめられるところだけが共通だが、映画では、目撃者は被害者と犯人の顔をしっかりと覚えているという平凡な設定のため、タイトルが『顔』である理由がなく、若く美しい岡田茉莉子(1933-)の顔のアップを思わせぶりに撮り続けることを余儀なくされている。

小説の方は、主人公が長年恐れていた目撃者が、決定的な邂逅の場面で、まるで犯人の顔の記憶がなかった(他人の顔の記憶などあいまいなものだ)ことが判明する皮肉と、安心したのもつかの間、主人公が役者として列車内で演じた映画のシーンのために、目撃者が深層の記憶を呼び起こしてしまうという意外な展開によって、タイトルの『顔』を動かしがたいものにしている。

映画はストーリーが無理やりだったり、笠智衆の田舎の鬼刑事役がまったく似合っていなかったりで単に不出来なだけのように思えたが、原作の小説を読み返してみると、両者の優劣にはもう少し本質的な要素も絡んでいることに気づいた。

小説では、主人公の日記と、目撃者の視点からの描写を、交互に組み合わせることで、見る者と見られる者との緊張をはらんだ対決を、簡潔に物語化している。しかし映像をともなう映画は、このような大胆な手法をとれない。話を下手に盛り上げようとして、余分なエピソードをごてごてと付け加えてしまったのだろう。

その余分なエピソードに封印されている当時の世相について少し。どの男たちも逆上すると、平気で主人公の女性をなぐりつける。今見ると違和感が強い。

目撃者の若者は、九州の炭鉱で労働争議の先頭に立ち、仲間のために解雇されてやむなく上京したという設定だ。それが一癖もふた癖もあるすさんだ人物として描かれている。当時の炭鉱の現場を見る一般の目はそんなものだったのだろう。