大井川通信

大井川あたりの事ども

『女ごころ』 サマセット・モーム 1941

 

井亀あおいさんが最期の時に手にしていた小説。2014年に出版の最新の翻訳で読む。たまたま買っていて手元にあったのだ。

原題は小説の舞台を示す『別荘で』というあっさりしたもので、こちらの方がずっとよい。いかにもかつての日本人好みの邦題だが、モームの視線は、男か女かというおおざっぱな区別をこえて、主人公の個性のひだにまで届いている。

とても面白かった。今まで読んだモームの小説がどれも面白かったことを思い出した。近頃は薄味の推理小説を読むことが多かったので、謎解きでも構成の巧みさでもない、小説本来の面白さとはなんだろうか、と考え込んでしまった。

一つ言えるのは、作者の人間を観る目の、圧倒的なきめの細かさ、段違いの解像度の高さである。これが前提としてあるから、さりげない一つ一つの文章も、その積み重ねとしてのストーリー展開にも、魅力と説得力が生じるのだろう。

主人公のきまぐれな憐れみをかけられた難民の若者は、その残酷な事実を知って自殺してしまう。その死体を片付けるのを手伝った男友達は、彼女をなぐさめるためにこんな言葉をかける。

「君がとんでもない快感を味わわせてやったために、今後の人生で、これ以上のものがあるはずもない、ここでおしまいにしたいということになったのかも。ほら、誰だってあんまり幸せなものだから、つい、ああ、もう、今の今死にたい、なんて言ってしまった瞬間があるだろう」

この台詞は、小説の中では、軽薄な男友達による上っ面な解釈という役割を与えられているにすぎない。しかし、そんな細部にさえ、奥深い人生の真実がこもっている。

以前テレビを見ていたら、あこがれの俳優に思いがけずに会えた女子大生が、(人生のピークだから)今死にたいと口走っているのを聞いて笑ってしまったが、僕自身も数カ月前、あこがれの漫画家と遭遇して、まさにそんな気持ちになれたのだ。

小説は若者の死が扱われるものの、激動の世界情勢のなかでしたたかに生き延びる富裕層の人間たちが主役の物語だ。井亀さんが、なぜこの本を最期に手にしていたのかはわからない。『アルゴノオト』を再読すればなんらかの示唆が得られるかもしれないが、おそらくは謎のままなのだろう。