大井川通信

大井川あたりの事ども

『二十億光年の孤独』を読む

谷川俊太郎(1931-)の名前を新聞などで見ると、その記事や作品から目をそらすのが習慣になっていた。詩集も何冊かもっていて、気に入った作品がないわけではないのだが、詩人といえば谷川俊太郎を出しておけばいい、あるいは、谷川の詩句ならなんでもありがたがる、というジャーナリズム(と一般読者)の姿勢を勝手に妄想して嫌っていたのだ。

食わず嫌いのために、有無を言わさずにこれだ、という作品に出会ってこなかったこともその原因かもしれない。

今回読書会で、処女詩集『二十億光年の孤独』(1952)を初めて通読してみて、なるほど才能あふれるデビューだったのだと納得した。その中でも、次の詩に一番の魅力を感じた。

 

からまつの変らない実直と/しらかばの若い思想と/浅間の美しいわがままと/そしてそれらすべての歌の中を/僕の感傷が跳ねてゆく/(その時突然の驟雨だ)

なつかしい道は遠く牧場から雲へ続き/積乱雲は世界を内蔵している/(変わらないものはなかった/そして/変わってしまったものもなかった)

去ってしまったシルエットにも/駈けてくる幼い友だちにも/遠い山の背景がある

堆積と褶曲の圧力のためだろうか/いつか時間は静かに空間と重なってしまい/僕は今新しい次元を海のように俯瞰している/(また輝き出した太陽に/僕はしたしい挨拶をした)

(「山荘だより   3」)

 

この高原を舞台にした詩の背景に、立原道造ソネットをみることが文学史的に正しいのかどうか僕にはわからない。ただ仮にそうだとして、立原の詩作からわずか十数年後に、より若い年齢の詩人によってなされた抒情の変革の手際には感心するしかない。圧倒されるほどいいかというと、違う気もするが。