大井川通信

大井川あたりの事ども

ゲーテ詩を読む

詩歌を読む読書会で、新潮文庫の『ゲーテ詩集』を読む。僕はかろうじて日本の近現代詩を好んで読んできたが、それ以外の古典の詩歌や外国詩は、まったく不案内だ。この読書会はそのあたりに目配りが広く、自分では絶対に手に取らない詩を読めることがメリットなのだが、しかし、勉強の意味をこえて、そこまで面白い詩に出会えるとは思っていなかった。

そもそも詩集は、自分にとってピンとくる作品は、よくても3割、せいぜい1割か2割だということを体験的に気づいてしまったし、翻訳詩となるとその割合はさらに落ちる。高名なボードレールだって、ほとんどの詩がよいとは思えなかった。

しかし、驚きや発見というものがどこに隠れているかわからない。このゲーテーのアンソロジーをめくると、どれもこれも興味深く、面白くない作品がほとんどないのだ。もちろん傑作や名作を集めているという理由もあるだろうが、他の詩人の同じような傑作選でもダメなものはまるでダメなのに。

僕にとっては、近年まれにみる経験で、自分の中の詩の概念を作り直さないといけないくらいの衝撃があった。だから、簡単には結論が出せないのだが、とりあえず思いつくことをメモしてみよう。

現代の詩が難解なのは、詩人が自分独自の個性的なイメージや感覚を作品に無理やり盛り込もうとするからだ。ゲーテ詩にはそんなところがない。この世界中の様々な人々の見方、考え方、感じ方を詩集のあちらこちらに鮮明に写し取ろうとしているし、それらの間の交渉を端的に描こうとする。

形式は、伝承、寓話、箴言、台本などなどと自由だ。一つ一つの詩が単純であり明解であることを恐れない。しかし一つの声、一つの主張に一体化してしまうことなく、作者自身は常に冷静に全体を見据えている。その全体認識を、無理に作品に詰め込もうとはしないのだ。多視点的で、多声的で、様々な形式をまとった作品が並ぶから、退屈することがないし、個々の詩というピースが、それぞれ世界全体と有機的に関わっているような気がする。

これはゲーテが詩人にとどまらず、近代の一級の文学者であり思想家であることからきている特質なのかもしれない。恩師今村先生は、『ファウスト』を近代理解のための必読書として推薦していた。ゲーテがこれほど面白いなら、遅ればせながら挑戦してみる価値はありそうだ。