大井川通信

大井川あたりの事ども

大井川歩きと水系をめぐって

矢野智徳さんの話を聞いたことをきっかけにして、年来の課題だった「水系」の問題を掘り下げてみたいと思う。とりあえず、吉田さんとの勉強会用に、現在までの関心の広がりを過去のブログ記事を抜粋することでレジュメにしてみた。

 

《要点メモ》

・大井川歩きは、その名の通り初めから水系への関心をふくんでいた。それは流域の自然な水循環の確認や保全という観点に深められる。

・ただし、大井川流域では、すでに終末処理場やダムが作られ、上下水道の人工的な水循環が、釣川にビルトインされている。さらに近年上水は「福北導水」に取って代っている。

・今回、地表面だけでなく地中を流れる水脈に注目することの大切さとともに、生物の環境にとって空気(風)の循環の必要性を知った。

 

【大井川歩きと「流域思考」】

僕ははじめ、自分が寝起きし暮らす自宅を中心にして世界を見ていこうと、そこから歩ける範囲を自分のフィールドにすることを考えた。歩き始めると、そこには小さな川の流れやため池があり、かつての暮らしが水の流れを軸にして営まれていたことに自然と気づくようになった。

それで自分のフィールドワークを「大井川歩き」と名付けたのだが、水への注目は、僕がもともとゲンゴロウなどの水生昆虫が好きだったことにも由来している。住宅街をでて旧集落を歩くようになったきっかけが、ゲンゴロウ探しだったからだ。

ゲンゴロウたちと付き合うようになって、彼らがいかに人間の河川利用に翻弄され、それによって絶滅の危機に瀕しているかを知るようになった。また、鳥見に夢中になると、海岸から河川の上流のダムまでを往復して魚を探すミサゴというタカの暮らしから、漠然と水系のつながりの大切さを知るようにもなった。

一時流行した「里山」という孤立した要素の保全ではなく、「流域」という面のつながりを大切にしなければいけない、という岸由二さんの「流域思考」には目を開かされる。なるほどゲンゴロウという小さな虫ですら、里山のため池と集落の田んぼとを行き来して生活しているのだ。

 

【『タマゾン川』( 山崎充哲 2012)を読む】

僕にとって、故郷の川は、東京郊外を流れる多摩川だ。これは多摩川で自然保護に取り組む、自然環境調査コンサルタントを仕事とする著者の本。子ども向きの本だから、わかりやすくスラスラと読めて、とてもためになった。

多摩川がなぜ、タマゾン川なのか。それは、現在の多摩川アマゾン川に生息するものを含む外来魚の王国となっていることを発見して著者が冗談でつぶやいた言葉が、そのインパクトからマスコミ等で広まったという事実に基づく。

以下、大まかであるが、教えられた内容をメモしてみる。

多摩川の水は、羽村の取水堰で9割が飲み水としてとられてしまう。

多摩川は、高度成長期の開発によって汚されて死の川となるが、著者の経験によると60年代半ば過ぎまでは泳ぎや釣りができる状態だった。(僕が70年前後に見た多摩川の汚染は実はごく新しいものだったのだ)

多摩川の水がきれいになっていったのは、1980年代後半からだが、それは流域の下水処理場の整備による。しかし下水処理水の水温が高いために、タマゾン川化が起きている。多摩川の流量の8割が下水処理水だが、生き物にとってきれいで栄養豊かな水。

人間の身勝手で捨てられる外来種で壊される生態系を守る必要があるが、一方で著者たちは、おさかなポストを運営して、捨てられる外来魚たちの命を守る活動をしている。

 

【御神木と杜人】

老人ホーム「ひさの」のコノミさんから誘われて、休日の朝、大社に行く。映画『杜人』の「環境再生医」矢野智徳さんが来られるというのだ。

大社の御神木が、ここにきて急速に枯れてしまった。それをたまたま知った人が、見かねて矢野さんに連絡をとったようだ。大社からの直接の依頼ではないが、大社の担当者にアドバイスをするという場を作ったようで、そこに居合わせることができた。

矢野さんの語りは映画の印象と同じで、派手さはなく、じゅんじゅんと真実を説くといった風だ。大地に生きる木々のためには、水の循環とともに空気(風)の循環が大切だ。地中に空気が流れず、有機ガスがたまると根の呼吸が弱まり、水を吸えなくなる。そのために幹が割れ樹勢が衰えて、虫害を招くという。

説明を受ければ素人にも納得のいく、まっとうなことを語っている。地表に小さなスコップで小さな溝や「点穴」を掘るという手法も現実的だ。地中、地表の空気と水の循環を改善し、御神木本体の生きる力を回復させれば、病気を押し返すことができるという考えだ。

一方、大社の担当者から、「ナラ枯れ」という言葉が出た。僕は初めて聞く言葉だが、後で調べると、全国のブナ類の樹木で被害が広がっているらしい。昆虫が媒介する菌類が木を枯らすのだという。僕も、松林を管理する施設で、松枯れの対策を身近に体験したことがあるが、それは、原因を特定し、それを薬剤等により、少しでも侵された樹木とともに徹底駆除するというものだ。そのうえで抵抗力の強い改良種と植え替えていく。

自然を完全に操作可能なものとして行う科学的な対策が主流だから、担当者の頭に既存のナラ枯れ対策のイメージがあるならば、矢野さんの考えは、やや迂遠に聞こえてしまうのかもしれない。

それともう一つ。大きな神社はあきらかに会社組織(官僚組織)となっている。従来の取引業者や公的機関との関係も配慮されるし、一担当者では新しい選択を行う上での責任を取り切れないということもある。たとえ組織のトップに通じたとしても、御神木(自然)に対する生きた哲学がない限り、目先の損得を度外視した判断はできないだろう。