詩歌を読む読書会で、高村光太郎(1883-1956)の処女詩集『道程』(1914)を読んだ。ひと昔の前の評論では、日本近代詩の傑作詩集みたいな言葉が躍っているが、今普通に読むと、詩として受け取るのはけっこうきつい。会の主宰も「つまらなかった」ともらしていたが、僕も読書会がなければ最後まで読み切ることはできなかったと思う。
ただ、「秋の祈」をこよなく愛する人間としては、「秋の祈」へと結晶する精神の荒々しい遍歴の記録として読むと、それなりに読みごたえがある。日本人や日本文化の矮小さを卑下し、芸術や恋愛へのあこがれをテコにして、西洋人と並び立つ存在を目指そうとする詩人の精神は、過剰なまでに近代を範型としている。
「常に蝉脱し、常に更新しなければならない/戦闘の開始はまづ頑迷な私の破壊である」(「戦闘」から)
一方、あらゆる矛盾と対立を取り払い、強烈な自我や主観を大いなる自然のもとに包摂させようとする東洋的な理想も強くあって、この記事のタイトルに引用した詩句を含む「万有と共に踊る」は、その直截的な表現となっている。あらゆる有限の断片が、主役として無限の組織に連なるという清沢満之の「万物一体論」や「有機組織論」を彷彿とさせるような哲学的な詩句だ。
近代と伝統。この矛盾をはらんだ精神の緊張を、卓抜な比喩を使い、深い祈りとともに一挙に形象化させたところが、「秋の祈」の名作たるゆえんだろう。