大学時代にあまりはじけることがなかった僕にとって、20代後半、東京郊外の学習塾の講師で過ごした三年間が、気楽で自由な学生生活を取り戻したみたいな貴重な時間だった。ある程度のお金と自由があったし、同世代の気安い仲間がいた。奥手ながらロックを聴きだしたのも彼らの影響だ。力を合わせて塾に組合を作るという得難い経験もした。親しい講師仲間でその塾に定年まで勤めた人もいるが、多くはそれぞれの道に進んでいった。
その中で特に印象に残っているのが、沖縄出身の宮国さんと北海道出身の深瀧さんの二人だ。出身地だけでなく二人は何もかも対照的だった。南国宮古島育ちで鷹揚な性格の宮国さんは今でいう話を「盛る」ようなところがある愉快な人だった。一方、深瀧さんは少し神経質で照れ屋だったりもする怜悧な切れ者だった。当然宮国さんは色黒で、深瀧さんは色白だ。
具体的なエピソードは忘れたが、だから二人は水面下では「犬猿の仲」だったイメージがある。こうして名前を並べられるのは、お互いにとって不本意かもしれないが、もう時効として許してもらおう。ほぼ同年齢だったこともあって、塾をやめてそれぞれの故郷に帰った二人のことは、連絡を取り合うほど親しくはなくとも、なんとなく気になっていた。
まず驚かされたのは宮国さんだった。沖縄の大学院で学んだ宮国さんは、地元のシンクタンクの研究員になり、ローカル番組のコメンテーターを務めるようになった。帰郷後相当の努力をしたのだろうが、持ち前の社交性も役立ったにちがいない。2005年の衆院選では民主党の候補にまでなった。小泉政権の郵政選挙の時だったから敗れたけれども、そのあとの民主党政権誕生の頃の選挙だったら、結果はわからない。
ただしその後宮国さんは政治家の道は断念したらしく、ネット上の情報も少なくなっている。SNSでつながれば詳しく知ることができるかもしれないが、それも億劫だ。ジャーナリストという肩書で紹介されている最近の記事を見かけたから、元気で活躍してくれていると思う。
深瀧さんは、もともとミュージシャン志望でベーシストだった。俺にスティングの喉があったら、とか冗談を言っていた。塾講師には車好きが多く、その影響で免許をとり本格的な改造車を手にいれ、たちまちラリーの競技に出場するようになる。行動力と咀嚼力のすごい人という印象が強かった。
故郷の旭川に戻ってから、ネギを送ってもらった記憶がある。塾の仕事をしながら、翻訳など他の事業にも取り組んでいたようだが、それ以上はわからなかった。
昨日久しぶりにネットで検索してみると、昨年出版された本の翻訳者として名前が出ている。レーシングカーの設計のバイブルといわれる専門書の翻訳でかなりの大著だ。塾時代には語学堪能なイメージはなかったから、相当に勉強したのだろう。車に関する専門的な研鑽を積んでいないとできない立派な業績だ。産業翻訳家の肩書を持っていて、航空機等の分野の専門知識もあるらしい。さすが深瀧さんだと感心する。
塾を辞めて、30数年がたつ。人が何かを成し遂げるには十分すぎる時間だ。それを活用できなかった自分のことは悔やまれるけれど、遠方の知人の存在はどこか懐かしく、その活躍には励まされる。