「いやあ、表海さんを乗せてるとエンジンまで調子よくなっちゃって。もう最高。いやほんとに。ほら、今そこのバス停の女子高生、表海さんをぼうっと見つめていましたよ。いやほんとに。まいっちゃうなあ。また表海さん、黙っちゃって。今日の授業の腹案、考えているのですかあ。塾教師のカガミ、ここにありってか。いやほんと。私、思ってますよ。表海さんの頭脳なくして、わが義矢留セミナーの未来なし。これほんと」
朝からうるさい男だ。キリがないので本題に入ることにする。
「そうでげすか。そうでげすか。やっとその気になっていただけましたか。まってました。入信でげすか。今なら入信費用3万円。一時間の講習とかんたんな入信式で、ご利益いっぱい、ギャルどっさり。こんどの木曜日、空いてまっか」
信心の話となると、とたんにでたらめな方言を使いだすのが安井の癖だ。表海は首をすくめて安井の話をさえぎった。
「いや、ちがうんだ。俺なんかより、ずっと適任者といえる男を君に紹介しようと思ってね。どうやら、彼は内面に矛盾を抱えているようなのだが」
矛盾、という言葉を聞いて、安井の目がキラリと光った。
「矛盾でげすか。それはいい。矛盾は信心の始まりです。私も長年教団のお世話になっておりますが、矛盾のない人間は宗教に見向きもしない。よろしい、ほかならぬ表海さんの頼み、この安井松男が引き受けましょう。ところで、その人はどこの人なんでげすか」
「なに、君の知らない人じゃない。城跡教室の副教室長の末期先生だよ」
突然、タイヤが軋り、表海のシートベルトが身体に食い込んだ。信号待ちの車のわずか5センチ手前で、安井の車はかろうじて急停車した。
(未完)
※この短い創作メモは、僕が東京郊外の塾講師をしていた1980年代末(今から36年ほど前)に書いたものだ。「東京ダイアリー」のバインダーの中で見つけた。登場人物は実在の同僚のパロディで懐かしい。どうせなら完成させておけばよかったと思うが、当時からそんな才能も根気もなかったのだろう。