大井川通信

大井川あたりの事ども

『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読む(その2)2005.12.16報告

2.概要

序章

○二つの二律背反 2005年
・「電車男」…お仕着せの感動物語を嗤いつつも、感動を求めずにはいられない2ちゃんねらー(2チャンネルの投稿者)たちが作りだした「純愛物語」。
窪塚洋介…代替不可能な「この私」のリアルの前に、ロマンティックな愛の対象=「日本」が絶対化される。
・ここに、現代文化における以下の二つの二律背反を見る。
 「アイロニー(嗤い)と感動志向の共存」「世界志向と実存主義の共存」
◎この本の目的
・反省(=社会と自己の関係の測定)という行為の社会性・歴史性を追尾する。
・なかでも、「世界と自己との間に距離を置き続けるポジショニング(反省)」であるアイロニーの誕生と変容を記述することで、それが、世界と自己を同一化する「感動・ロマン主義・ベタ」と共存してしまう今を対象化する。

 

第1章 ゾンビたちの連合赤軍

連合赤軍事件における反省=総括 1971-72年
・山岳ベース小屋の中での12名の集団リンチ殺人=総括の半ばでの処刑、「敗北死」
・「総括」には、成否を判断する基準・準拠枠組みが存在しないため、その完了は不可能であり、無限に引き延ばされる。(自律的な反省システムの暴走)
○近代(人)の条件としての反省(=再帰的モニタリング)
・「反省」による行為の調整が、近代社会を動態化する。(ギデンズ)
・「反省」による自分さがしが、近代人を主体化する。(ルーマン
◎自己否定としての反省
・近代左翼は伝統的に、プロレタリア解放思想にコミットするインテリの立ち位置=ポジショニングの欺瞞性を問題にしてきた。
・60年代の学生たちの「自己否定の論理」は、獲得した否定的アイデンティティによる他者への攻撃性・暴力性を含んでいる。(高橋和巳
◎総括の論理
・メンバーは、「完全なる共産主義化」という到達不可能な目標に向け「革命のために死を賭せるか」という自己否定の身体規律=形式が自己目的化される中で、敗北死にいたる。
・「指導者」森恒夫は、自らの自己否定にメンバーからの無条件の承認を得ることによって、メンバーの自己否定を裁定する超越的存在(生きながら死を認められたゾンビ的身体)として生き残る。
○自己否定の否定脱構築
ウーマン・リブは、自己否定の論理がもつ暴力性(男性中心主義)の批判を、肯定の論理によって開始する。

▼60年代的なものの「鬼っ子」である連合赤軍の総括の論理の詳細な分析に比べて、自己否定の論理それ自体の分析が物足りない気がする。後から、その暴力性に対する抵抗や反省について繰り返し触れられるだけに、高橋和巳の直感をもう少し丁寧に敷延してほしかった。


第2章 コピーライターの思想とメタ広告 -消費社会的アイロニズム

○「総括」後の70年代
・自己否定の論理のグロテスクな継承=内ゲバが激化する一方、若者の大半は、自己否定的な反省形式(=自己の立ち位置を、何らかの規準・本質からの差異において、消極的に測定・固定化することを命じる暴力)から距離をおくようになった。
◎消費社会的アイロニズム=抵抗としての無反省の誕生
・自己否定的な反省形式にあらがい、世界を記号の集積体として相対化しながら、「ヨコナラビの差異」を肯定するポジショニングが、消費社会の論理とともに誕生する。
糸井重里は、消費社会の中心・先端に位置することによって、消費によって慰撫される庶民の「中流幻想」を肯定しようとする。
○「コピーライターの思想」という言語(記号)観
・広告が商品の価値を構築するような資本主義の段階に入り、言葉=記号がたんに世界を再現するのではなく、世界を操作しうるという思想が生まれる。
・この思想は、言葉=メディアの自律性の認識と、世界と言葉の「素朴対応悦」を脱臼させるパロディの戦略を2契機とする。
○マンガ論争 1978-79年 津村喬vs稲葉三千男
・マンガの政治的可能性(権力との距離感覚を学ぶ)をめぐる新・旧左翼の世代間闘争だけでなく、マンガを社会的変数により説明可能とする知識社会学と、マンガ固有の伝達様式に注目するメディア論との対立の意義をもつ。
津村喬は、60年代的なものと距離を置きつつ、同時代のリアルを捕捉するために、メディア論・記号論的知を援用する。そして、記号システム・消費社会の外部=身体性(料理、太極拳)に向かっていく。
◎パロディの戦略
・糸井=『ビックリハウス』は、読者投稿+パロディという方法論を徹底して、記号の戯れを生きるアイロニカルな内輪空間をマスメディア大に展開し、記号システムの自律性に揺さぶりをかける。
・西部-パルコ等の資本は、マルクス主義の失墜を受けて、若者の内面と身体を律する疑似超越者となり、メタ広告に先鞭をつける。
・メタ広告は、「これは広告である」という認識枠組みを脱臼させる「広告らしくない広告」として、消費社会の身体技法(アイロニーゲームへのコミット)を教育する訓練装置となる。
アイロニーの論理
アイロニーは、世界の構造を変えることによって自己を貫徹するベタな価値意識の暴力性を回避し、世界における自己の位置をずらすことによって差異化を実現する。これにより、蛸壺的な共同体の乱立(=多元的共同体主義)を肯定する。
◎消費社会的アイロニズムの転態
・「新人類」においては、アイロニーは、ヨコナラビの差異を肯定する方法論でなく、他者に対して優位=メタに立つための道具となる。ここでは、ヨコナラビの差異は、パロディの諸類型 として嗤いの対象にされる。
・「オタク」においては、世界を鳥瞰するメタの視点を断念し、ヨコナラビの差異の一項に没入する共同体的、内輪的指向が強まる。

▼著者は、糸井重里津村喬に、60年代的なものへの距離感と、同時代に対する「闘争の継続=左翼的感覚」において「表裏の関係」を読み込もうとする。しかし、二人の「抵抗としての無反省」にこの二重の意味が込められていることが明示されていないこともあって、論旨をたどるのが正直しんどかった。


第3章 パロディの終焉と純粋テレビ -消費社会的シニシズム

◎(抵抗としての)無反省 1980年
田中康夫は、『なんとなく、クリスタル』において、本文と注の価値を転倒させ、消費社会全体をパロディ化(注のネタ)とすることで、超メタ的な注釈者のポジションを手に入れる。
・消費社会の全面化の中で、消費社会の外部の不在を告げる田中の注釈は、津村の同時代批判の根拠を掘り崩してしまう。
・田中は「60年代的なもの」に対する抵抗の語り口を回避し「主体性」をやりすごすことで、70年代(糸井・津村)を封印する。
◎無反省としての反省
・田中以後の「パロディとしての類型化」は、消費社会を生きる人々を類型化する疑似超越者としての「ギョーカイ」を設定するなど、差異化のゲームを実体化させ、無反省という反省形態に転化していく。
・「60年代的なもの」と完全に切れて、人々の身体を規制するルールとなったアイロニーを、消費社会主義シニシズムと呼ぶ。
浅田彰柄谷行人は、メタを指向し続け「永遠のいたちごっこ」に強迫的に戯れるメタ広告(川崎徹)が、共同体・内輪の形成を駆動させることに警鐘をならす。
○純粋テレビの成立 1985年~
・『元気がでるテレビ』は、凡庸な素材を大げさなドキュメンタリー的手法で演出することで、テレビ番組をパロディ化し、「お約束」に対する嗤いを生み出す。
・お約束の外部=素人の振るまいをテレビに取り込むというメタお約束において、視聴者はタレントとともにつっこみを入れる位置を保障される。純化されたテレビ空間に外部は存在しない。
・アイロニカルなポジショニング(お約束を嗤うこと)は、テレビ視聴という日常をこなす上で 前提となる身体技法と化した。
○パロディの終焉
・80年代半ばの俵万智ブームに際して、浅田彰は、パロディは日常を異化するポテンシャルを失い、自己目的的な言葉遊びの形式主義が加速する、と診断する。
・究極の反省=総括と同様に、無反省の極においても形式主義(ゾンビ)が姿を現す。

▼抵抗としての無反省(アイロニズム、70年代)と端的な無反省(シニシズム、80年代)との蝶番の位置に田中を置くというのが理解のポイントだろう。浅田=柄谷の同時代認識に負うところが大きいが、この本の「アイロニズムシニシズム」という対概念にほぼ対応するのが、「ユーモア/イロニー」である点がわかりにくいかもしれない。


第4章 ポスト80年代のゾンビたち -ロマン主義シニシズム

ナンシー関の「純粋テレビ」批評
・ナンシーは、純粋テレビの90年代的転態を批判する。
①バラエティタレント(無審査系芸人)の跋扈を許容する構造-テレビのフレームに収まれば番組になるという、弛緩した純粋テレビの論理
②スポーツやお笑いを「感動」に着地させようとする傾向(感動の全体主義)-感動を媒体にして、世界をことごとくテレビの素材に転化しようとする純粋テレビの傲慢さ
③何の代償なく、自らをアイロニカルな位置=つっこみに置く視聴者と送り手との共犯関係(需要と供給)
・ナンシーは、自らの立ち位置と③の視聴者の立ち位置との違いを、知識社会学的なメタポジションをとることなく、遂行的に指し示すという困難を引き受ける。これは、彼女もまた純粋テレビの空間から批評言語を生み出していたからである。
・世界の出来事を記号化・キャラクター化し、その記号を編集・加工する事によって、アイロニ カルなパロディ=批判を提示するという方法は、80年代アイロニズムからの継承である。
・ブラウン管という表層に立ち現れる記号に、「何故?」というアイロニカルな疑問(=つっこみ)を投げかけることで、記号論的秩序を明示化する。アイロニーによって、世界の構造を浮き彫りにし、その構造に亀裂を入れるという、「脱構築」的戦術をとる。
2ちゃんねるに見る「ポスト80年代」の反省様式
2ちゃんねるは、90年代的な純粋テレビをさらに純化させ、80年代の「無反省」に対して、「抵抗としての反省」を試みる。
・純粋テレビの視聴体験は、メディアの演出に対する裏読みのリテラシーをもち、お約束を嘲笑する態度=純粋テレビ的アイロニーを大衆化する。これにより、巨大な内輪空間が形成されるとともに、お約束に対する距離感覚が、同時にマスメディア一般に対するシニシズムを生み出し始める。メディアへの愛ゆえのシニシズムというアンビバレントな心性は、2ちゃんねらーの素地となる。
・80年代的内輪空間がマスコミに担保されたものだったのに比べ、2ちゃんねるにおいては、マスメディア(ギョーカイ)は内輪のコミュニケーションのための素材へと相対化されるため、過剰な反マスコミ主義に道を開く。
2ちゃんねる的コミュニケーションの背景には、90年代の終わりのインターネットの世俗化という技術史的側面とともに90年代以降の若者コミュニケーションの構造変容(=秩序の社会性に対する繋がりの社会性の上昇)がある。
ロマン主義シニシズム
・嗤いは、もはや批判的アイロニーの機能を失い、内輪空間の繋がりのためのツールとなってしまう。そこではアイロニズムの摩滅の果てに、対極にあるナイーブなロマン主義が回帰する。
小林よしのりの反市民主義は、立場をとることへの抗い=反思想的思想=ロマン主義の精神を受け継いでいる。
・現在では、自らを標準とする(とされる)「戦後民主主義」「左翼」「マスコミ」が無思想の思想の標的とされ、その対抗基軸=ロマン的対象として「ナショナリズム」「保守」が呼び出されているが、それは偶然的な選択にすぎない。
ロマン主義的シニシストにとっては、不確定な他者に行為が接続されるかだけがリアルな問題なのであり、ロマン的対象は、接続可能性を高めるための仕掛けにすぎない。

▼さすがに著者にとってリアルな同時代の分析だけあって、ナンシー関に対する理解は、レンズの焦点がピタリと定まっている印象できわめて正確だ。2ちゃんねる等への記述も、他の章に比べたらまとまりがあって読みやすい。


第5章 終章-スノッブの帝国

▼今までの議論の「総括」なので省略。最初に読んだ時は、骨組みだけではさっぱり頭に入らなかった。通常まとめの図表は、見ながら読むと理解が進むようにできているのだが、この表は意外と不親切だ。補論部分は、時間切れで省略。