大井川通信

大井川あたりの事ども

『釈尊のさとり』 増谷文雄 1979

仏教学者増谷文雄(1902-1987)の講演録を文庫化(講談社学術文庫)したもの。一般向けの教養講座の一回の講演会の分量だから、内容もわかりやすく90頁弱をなんなく読み切ることができる。

初読は1995年の5月のメモ書きがあるが、この日付には思い当たることがある。当時、オウムの事件が社会に激震を与えていた。その教理をみると、原始仏教(釈迦そのものの教え)が大きく取り上げられている。ライバルと目される別の新宗教教団も同様だった。

日本の仏教の既成教団は、親鸞日蓮道元空海など日本における立宗の開祖を重んじて、釈迦にまでさかのぼるということはしない。新宗教が仏教に依拠して、既成教団を打ち負かすためには、釈迦そのものに立ち返ることが有効だったのだろう。

新宗教が参照する全く新しい仏教の教えに驚いて、それを学ぼうとして手に取ったのがこの本だった。今よりも、もっと頭でっかちで西洋由来の理論や評論を愛読している時だったから、この本で描かれる釈迦の悟りの内容が、やたらにシンプルであたりまえの事であるように思えて、拍子抜けした記憶がある。さほど重要な本とも思えなかった。

あれから30年。子育ても、親の死も、定年までの仕事も経験した。コロナでの臨死体験も。人生を「苦」ととらえる意味合いにも共感できるようになった。

今村先生を通じての清沢満之との出会いや、アメリカで布教する羽田先生の教えに接する機会もあった。清沢から「無限」の概念を学ぶことで、一見単純な「縁起の法」の目くるめくような深遠な含意を意識することもできるようになった。

だから今になって、この本を再読すると、著者が釈尊のさとりの一点に絞って、なんとか伝えようとしていることが以前よりも腑に落ちるような気がする。それは依然として、当たり前で平凡なことでもあるのだが、聞き逃せない何かを含んでいるのだ。