大井川通信

大井川あたりの事ども

『わたしを離さないで』 カズオ・イシグロ 2005

今度、読書会でカズオ・イシグロ(1954-)の本が取り上げられることになった。有名な作家だが、僕は読んだことのないので、きちんとした読みができずに恥をかくかもしれない。そう思って、あわてて代表作と思しき本作を手に取った。読書会の効用は、ケチな見栄やプライドをばねにしてでも、とにかく読書を促してくれるところにあるのだろう。

結果的に、読んで良かったと思える特別な作品だった。最上級の文学作品であることはまちがいない。

一人称でたんたんと語られる、静謐な世界のありようがとてもいい。少しずつ事態が明らかになるが、特別な事件がおこるわけではない。日常に波紋を残す小さな出来事の記述とそれをめぐる濃密な心理描写があるだけだ。

しだいに明らかになる設定も、SFの世界では特別に目新しいものではないだろう。たいていの読者は、読み始めてすぐにこの設定を見抜いてしまうだろう。主人公の育ったヘールシャムという場所の成り立ちが最後の種明かしとなるのだが、ここにも奇をてらったどんでん返しがあるわけではない。

主要な登場人物は、語り手のキャシーと友人のルースとトミー。ヘールシャムでの保護監という名の先生たち。舞台も、ヘールシャムと卒業後のコテージ、ノーフォークへのドライブ、そして介護人が訪問する提供者が住む回復センター、とシンプルだ。

主人公であるキャッシーらヘールシャムの生徒たちは、取り巻く環境に対しても、また生徒同士でもあからさまな反抗や対立を示すことはない。学校側の意図や友人の内面を推し量り、わずかの手がかりをもとに熟考し、基本的にそれを受け入れていこうとする。このような姿勢は、ヘールシャム卒業後のより過酷な環境に対しても同様だ。

このような特異な人間関係の在り方は最後まで一貫していて、すべての謎解きの後もそのことに説明が加えられているわけではない。クローンとして生み出され、ある程度社会的に成長することが期待されながらも、人間への内臓の提供を「使命」として受け入れるような精神構造に設計されていると推理することは可能だし、それが自然な解釈だろう。

小説の最後の種明かしは、ヘールシャムがクローンのいわば生活改善運動の舞台であり、結局そこでの理想は実現されなかったというものだ。人類がクローンを生み出す目的を変えることができない以上、その失敗は必然だったといえるかもしれない。

そうするとこの小説の特異さが明らかになる。小説が描きだす世界の構造はきわめてシンプルであり、そこには何の飛躍もなく、何らの謎も残すことなくすべて説明されている。クローンたちを主人公とする以上、そこには一切の希望もなければ、別の意味で絶望もない。

ここに残るのは、主体的であることを禁止されつつも、モノになりきることのできないクローンたちの日常の記述があるばかりだ。しかし、そこに逆説的に生きることの確かさが書き留められているように感じられるのはなぜだろうか。

少し前に、哲学界隈で「中動態」という概念が流行した。それが世界の新しい観方を可能にするような最新の武器であるかのような論調に僕はまったく納得できなかった。欧米の思想的な文脈は別にして、日本人の暮らしに「中動態」的な事態はあふれているからだ。

クローンたちの世界は、互いに空気を読みあい忖度しあって運命を甘受するというひと昔前の日本人が強いられた「理想」のあり様に近似している。だから、いくらかの違和感を通してそれ以上の親近感を抱いてしまうのは、日本の読者として仕方のないことだろうと思う。