大井川通信

大井川あたりの事ども

『シッダールタ』 ヘルマン・ヘッセ 1922

読書会の課題図書で、何の予備知識もなく、読み進めた。ゴータマ・シッダールタがお釈迦様の名前というくらいの予備知識はあるので、釈迦をモデルにした小説と思って読み始めると、第一部(全体の3分の1くらい)まではさほど違和感はない。

ただ第一部の中ほどから、実際に悟りを開いたという仏陀(ゴータマという姓をもつ)の噂が彼の耳に届き、やがて二人は対面する。多くの弟子を引き連れた仏陀の方が、明らかに実際の釈迦の人物像に近いので、物語の展開がちょっと謎めいてくる。

この時点で、二人の悟り(認識)の内容にはそん色はない。世界の全体を関係性の連関・調和・完成としてありありと受け取るという仏教的な認識を共有していたから、二人は行動を共にすることも可能だったはずだ。

しかし、シッダールタは、仏陀の教えには一点の欠落があるとして、その疑問に答えを見出すために友とも別れ自分だけの旅を始めることになる。それは、何ゆえシッダールタというこの〈私〉が存在するのか、というきわめて現代的な問いだ。

第二部では、このため「悟り」の高みにおいていったんは見限ったはずの俗世の営みの中に、あえて足を踏み入れていく。性愛に溺れたり、商売人になってビジネスに夢中になったり、わが子への情愛に我を失ったりする。初めは、俗事を見下していたシッダールタも、やがて俗人同様の右往左往をするようになる。

ここでシッダールタを悟りへと救い出したのは、渡し守の老人との川に向き合う生活だ。川という自然の循環から日々学ぶ渡し守の老人をモデルにして、彼は、シッダールタとしての俗世のすべてのふるまいを肯定し受入れる、新しい悟り(認識)を手に入れる。

ヘッセは、この小説で、釈迦の伝承とは異なった、現代人をも納得させるような、もう一つの悟りのプロセスを描き出したといえるだろう。今はやりの言葉でいえば、別の世界線における釈迦、とでもいえようか。俗世から切り離されることによってではなく、俗世の中を泳ぎきることで達成される悟り。

 

読書会の課題として、キーワードを一つ挙げるというのがあった。この小説世界を成り立たせている最重要の言葉なら、まちがいなく「シッダールタ」だろう。主人公がこの名前であることによって、彼の悟りの達成は予告されたものになる。と同時に、この固有名に立ち止まることで、あたらしい仏陀への道が開けるのだ。