大井川通信

大井川あたりの事ども

吉本を読まない横超忌

今日は、吉本隆明の忌日だから、薄い本でも詩集でも読むつもりだったが、忙しさにかまけてそれもできなかった。吉本が亡くなって10年。あれほどの存在感もやや薄れつつあるということか。

僕が吉本を読んだのは、上の世代とのコミュニケーションをとるためだったと思う。僕が本を読み始めたころの論客たちは、ほめるにしろ、けなすにしろ吉本を良く論じていたし、読書会などで会う年長の世代も、さも当然のように吉本の独特の用語や語り口を説明抜きに使っていた。

彼らの本を読み、彼らと議論するためには、最低限の著作にあたり、吉本論のいくつかを読んで、自分なりに腑に落ちた吉本像を作っておかないといけない。この作業ができた後には、恐れずに年長世代の暴論と付き合うことができた。

彼らは、吉本と同じように高飛車に人を罵倒し、自己流の論理を振りまわして人のいうことに耳を貸さないという特徴を持っていた。あれはいったいなんだったのだろう。

70歳以上の老人となったエピゴーネンたちが表舞台から去り、僕よりも若い世代が主役となった今では、誰もが穏やかになり、相手を尊重する穏やかなコミュニケーションが当たり前になった気がする。それを物足りないという人もいるが、あの世代の不毛な議論の現場を思い出すと、とてもそんな風には思えない。

左翼と革命の時代に対しては有効だった吉本の思想の最良の部分も、今では普通の感覚として僕たちの日常に溶け込んでいる。むしろ、吉本を含む戦中派の生きたきた時間とそれによって強いられた「奇妙な」思想と態度を(信奉するのではなく)突き放して、しかしそこから何事かを学ぶという姿勢が大切ではないかと思う。