大井川通信

大井川あたりの事ども

『希望の原理』 岸田秀 1993 

唯幻論の復習のために取り出して読む。著者にとって初めての語り下ろしの本で、基本的なトピックが多数扱われているのに記述が短くてわかりやすく、全体の分量も少ない。岸田秀の考えをおさらいするのに便利なのだ。

青土社岸田秀コレクションの一冊だが、この本とのつきあいはその以前にさかのぼる。社会人2年目の1985年に朝日出版から新書形式で出版されたときに読んでいたからだ。この増補版を手に入れると、蔵書の重複が嫌いな僕は、それを捨ててしまった。

本の末尾に書き込まれたメモには、1998年、長男が九大病院で手術した日に再読したと書いてあるが、確かにそんな記憶がある。その10年後の2008年に再々読了。さらに2015年には「犯罪論」がテーマの勉強会の準備で読み返している。

なお、この年には、この本を長男にあげていて、二十歳の息子が読了したというメモが足されている。だから、この本には息子の要約メモが書き込まれた大学のビラが挟み込まれている。

そして今回、息子の書棚から回収して、親子合わせて6回目の読書となった次第。僕にとってこのような本はまれだし、このような著者は他にはいない。

岸田秀は自分が閉じ込められた神経症の世界と向き合うこと(だけ)を通じて、フロイトを手掛かりに唯幻論を作り上げた。この世界の全貌を説明する一般理論として、言葉遊びや引用による権威付けとは無縁の、清潔で純粋で徹底したものだ。

僕は読みながら、何度も著者の認識にいまだに追いついていないことを恥じ、また嫉妬さえした。こういう読書体験は岸田本以外では味わえない。

多くの人々にとって、思想・哲学の類が必要であるとしても、岸田秀の本だけで十分だというのが、僕の長年の持論である。彼の本と比較すると、多くの思想書は水増しのコケオドシに見えてしまうのだ。

ただ、以前から彼の本は軽い読み物(トンデモ本の一種)として扱われがちだったし、著者が第一線を引退した今では、若い人が読む機会も減っていくだろう。残念なことだ。