大井川通信

大井川あたりの事ども

老害を反省する

9月の吉田さんとの勉強会。通算54回目。これだけ話し合っても、吉田さんは新鮮な一面を見せてくれる。吉田さんは津屋崎の歴史に関するレジュメを提出する。波折神社、豊村酒造、玉乃井と、吉田さんの地域の歴史に関する関わりは本格的で玄人はだしだ。

僕は、ここ最近の老害シリーズの記事をまとめてレジュメにした。題して「老害を反省する」。最後に宗教の効用につなげたので、扱うのが難しい宗教の問題にも踏み込んだが、さすが吉田さん。清澤満之や金光教を題材にして、よい議論ができた。なお、レジュメの下線部分が「反省」ポイント。

    

【怒る老人】

近ごろは、街中で突然怒り出す老人が多いらしい。

僕も少し前に、こんな老人を見た。スーパーのレジのところで、おじいさんが何か怒っている。近くにいって聞いてみると、自分が買おうとしたお惣菜のパックから、総菜の中身を落としてしまったことで文句をつけているようだ。

惣菜をつめたプラスチックのパックが輪ゴムでとめてあるだけだった。だからすぐにはずれて中身が落ちてしまった。他のスーパーではホッチキスで止めるなりしている。おかしいのではないか、というのがその老人の主張だった。レジが済んだ後に落としてしまったために怒り狂っているようだった。

若い真面目そうなバイトが神妙に応対している。なんて老害だと、僕は義憤に耐えず、隙があれば文句を言ってやろうと身構えた。

先日、妻が月に一回、街のショッピングモールで手作りの小物を売るので、前日に商品の搬入をした。事前搬入は、時間を指定されているが一般客の駐車場から直接入れて構わない。そういうルールで何年もやってきたが、売り場に入ったところで中年の体格のいい警備員の男に止められた。搬入口の受付をとおせという。従来の方法を説明しても、問答無用の感じで、今までは大目に見て来ただけだ、今からはそうしなさいときっぱりという。横柄な態度に内心頭にきたが、それが本当のルールならば仕方がない。

連行されるみたいに裏の搬入口に来て受付簿に記入していると、別の警備員からイベントの出品者は記入不要だと言われる。後でわかったが、ここで働いてまだ二か月の警備員は、イベントの取り決めを知らなかったのだ。ところが、その警備員は謝ろうともせずにふてくされている。

僕はもともと短気な人間だけれども外面はいいほうだから、こんな場合に面と向かって人を怒ったりすることはない。しかしこの時ばかりは、声を荒げて相手の非と非礼をなじった。相手も最後には謝罪らしきことをいっていたし、先輩の警備員も私の教育不足だと頭をさげた。はじめはそんな感じではなかったから、こちらの剣幕に押されたのだと思う。

その時は頭に血がのぼっていたが、振り返ってみれば、僕もすでに還暦。はたからみれば「怒る老人」そのものだろう。総菜のパックが輪ゴム止めなのはおかしいというあの老人の主張と、新入り警備員の仕事ぶりが横柄だという僕の主張とは、自分なりの「正義」にしがみついている点で大同小異なのにちがいない。

 

老害 vs. 老害

お盆の週の平日の休みに、いつものようにファミレスに行く。寝過ごしたり家でダラダラしたりせずに、朝から計画通りの勉強を開始するのは気分がいい。

ファミレスも平日だからすいている。ところが今日はアクシデントがあった。小太りで禿げた老人(といってもまだ60代くらいで、ラフな格好をしている)が現れて、斜め前の少し離れた席にすわる。テーブルには、ノートパソコンとプリンターが置かれていて、携帯で話しだしたのだ。どうやら、サービスセンターに連絡して、設定か何かの相談をしているらしい。

どんどん通話の声が興奮して大きくなるから、僕は、立ち上がって「レストランで通話するのは非常識ですよ」とたしなめた。そのあと店員も声をかけていたから、同じような注意をしたのかもしれない。

さすがに小声になり、声をひそめるようになったが、結局そのあと一時間は通話を続けていた。僕は、こういう他人の「不正」には神経質な人間だ。勉強に集中できなくなって、店を出ることにした。そのまま帰ればよかったものも、こうした事態を黙認したくはない。

帰り際に、その老人のわきにたって、先ほど注意しましたがと声をかけると、思わぬ反撃を受けるはめになった。通話を禁止する法律があるのか。こどもが騒ぐのはかまわないのか。老人も不意の攻撃に口から出まかせを言わざるを得なかったのだろうが、こんな子供じみた論争にまきこまれたくはない。老人の方からも、あなたと話すことはないと顔をそむけたので、「老害だな」と捨て台詞をはいてその場をあとにした。

しかし、そもそも長時間の読書や勉強でファミレスの席を占拠するのも、ルール違反だ。こちらとしては、混雑の時間をさけたり、昼前には店を出るなど気を使っているつもりだが、それは老人が小声で通話するのと同じレベルの自分勝手な配慮でしかないだろう。

老害だな」という言葉が、自分に返ってくることに気がついた。まさに老害老害の争いでしかなかったのだと。

自宅とその周辺で本来やるべきこと(部屋の片づけや家事、家族との会話、大井川歩きのすべて)から逃げて、快適な環境で好きな勉強にうつつをぬかすという生活態度がいけなかったのだと、ようやく気づく。

 

【自分の思考のクセを知る】

僕は、ふだんの生活の中で、なんともバランスを欠いたこだわりにとらわれることがある。子どもの生活習慣や家の管理などのことで、突然あるポイントが心配になり、性急にそのことの改善を言いつのったりする。

そのポイントはまったくの思い違いでもないし、それなりの根拠もある。しかし冷静になって振り返ると、たくさんある問題点のなかでなぜそのポイントなのか、それを問題にするタイミングがなぜ今なのか、その言い方はどうなのか、という疑問の余地はおおいにあるのだ。そのこだわりは、客観的にはかなり恣意的でバランスを欠いていることになるだろう。

家の外でも同じだ。たとえば、こんなことが気になる。

スーパーの駐車場でカートを戻さずに車の脇に置きっぱなしにする人がいる。狭い駐車スペースの利用の際に誤って車に傷をつける人がでるかもしれない。そう考えると、カートを放置する人の自分勝手さが許せなくなる。

今日、たまたま、カートを放置して車を出そうとする老夫婦が近くにいた(しかも駐車に邪魔になる位置にあからさまに置いていた)ので、迷惑ですから戻してくださいと面と向かってきつく注意してしまった。

その時は、正義感が高揚して良いことをしたと思ったが、買い物を終えて、車に戻るときに自分のカートを倒して、高級卵の一ダースの半分を割ってしまったから、どこかで動揺や後ろめたさがあったのだろう。

ただここまでは、自分の平常運転だから目新しいことはない。発見があったのは、そのつぎだ。

僕は、読書会などで本を読むときと、他の参加者と読みが合わないことが多い。どう考えてもこう読むべきだろう、という読みの方向に全く賛同が得られない場合もあるし、際立った長所や欠点があると確信がある場合も、その点がスルーされることがある。議論して他者と考えが合わないことが多かったのだ。

なんとも腑に落ちないと思いつつ、本を読んだり考えたりすることは自分の数少ない得意分野だから、これは自分の優位性を示すものではないかとうぬぼれてもいた。

ただ、日常生活における自分のバランスを欠いた特異なこだわりから推測してみると、読書や思考におけるこだわりだけが、高度なバランスを保って常に当を得ているとは考えにくい。客観的にみれば、カートの戻しをさぼった老夫婦にがみがみ文句を言っている程度のレベルなのではないか。

悲しい話だが、自戒しよう。

 

【他人のカートを戻す】

もともと思想や評論が好きだったから、その関連で宗教に興味をもっていた。歳をとって生死のことを意識しだすと、さらに宗教の方に軸足に移す必要を感じるようになった。ただ、もっと卑俗なレベルでいえば「老害」対策だ。

老化して身体的、精神的なレベルが落ちてくると、自分勝手で感情丸出しのふるまいに抑えが効かなくなってくる。世間的も気にしなくなるし、アンガーマネジメントの知的な理解もさして役にはたたない。

祈り、願いの全身的な行為である「宗教」こそ、細胞レベルで人のふるまいの矯正ができるだろう。そうあたりをつけていたが、さっそくその効用を感じる場面があった。

今日、スーパーの駐車場で自分がカートの商品を車に入れ終わったタイミングで、何台か離れた車でまさにカートを置き去りにしそうな人を発見した。僕は空のカートを押しながらその人に近づき、「もっていきましょうか」と声をかける。

その人がどぎまぎした様子を見せたのは、今までこんな声かけを受けたことがなかったからかもしれないし、あるいは、カートを置き去りにするのを見抜かれた決まりの悪さからかもしれない。

とにかく僕は、にこやかに彼からカートを受け取ると、二台のカートを連結させてカート置き場に戻したのだった。この一連のふるまいを、事前の意図や計画なしにほとんど無意識におこなってしまったのだ。

これはどう考えても、「自他の幸せを願う」という慈愛の精神に感化されたものとしか言いようがない。もちろん、こうした理想論は誰でも知っているが、実際には実行するのは難しい。宗教では、これを「神仏の願い」としていったん超越化し、それと自己とを一体化させるというプロセス(祈りの日常化)を通じて、個人の行動原理に落とし込むことができるのだ。