ふらふらになってたどり着いたのは、村の賢人原田さんの納屋兼ギャラリーだ。
僕は、ここ数日の精神の振幅を、原田さんに吐き出す。金光教の学びの高揚と老害騒動の失意との間のふり幅だ。原田さんに話すことで考えがまとまり、自分の腹に収まるということがある。
もちろん、原田さん自身の「点の思想」へのオマージュもわすれずに。宗教的、学問的、制度的うしろだてなしに、単独で活き活きと自らの思想を耕し続けているのは驚くべきことではないか、というのは僕の年来の持論だ。
原田さんから、鎮守の杜の神木について残念な情報を聞く。低く切り縮められた神木群に追い打ちをかけるように枯らしたのは、住民たちの故意ということだった。少しも悪びれずそのことを話していたという。帰り道に確認すると、境内の周辺の何本もの大木に穴が開けられて、除草剤が注入された跡があった。ナラ枯れなどではなかったのだ。
地区の役員クラスなら、70代前半のはずだが、そのあたりに村の歴史や信仰の連続性に連なろうという意識はまるで伝わっていないのだ。見かけは爺さんだが、中身は戦後生まれの自己利益中心の若者に過ぎない。農業をやっているといっても機械農業だから、と原田さん。
最近訪れた近在の地域の鎮守では、樹齢200年という銀杏の神木が大切に守られていた。和歌神社の銀杏はそれ以上の太さがあったから、少なくとも200年以上、江戸時代からの村の歴史を見守ってきたことになる。神など信じなくても構わない。自分たちの先祖たちの暮らしを見守り、先祖たちが思いをかけてきた樹木をいとおしむ気持ちがわかないのは、いったいなぜなのか。
しかしこんなことでまた悪態をついていたら単なる老害に戻ってしまう。いかに自分が生きるか、それだけなのだ。