大井川通信

大井川あたりの事ども

鎮守の杜、切られる

車を走らすと、あちこちの銀杏の黄葉がきれいだ。それで、休日の朝、わが大井の大銀杏の黄葉を見上げようと、久しぶりに鎮守の杜を目指した。

しかし、驚いたことに、銀杏の木がない。いや幹の三分の一くらいが残されているだけで、枝も葉も全てとり払われているのだ。銀杏ばかりではない、境内の5,6本の古木が、あるものは棒のように切り縮められ、あるものは切り株だけになっている。

境内だけではない。裏山の斜面に生えた大木も何本か伐り倒されている。うっそうとした境内が、間が抜けたように明るくなっていた。

和歌神社の境内は、裏山がずらりと広葉樹の大木がならび、初夏にはヒメハルゼミ蝉しぐれがぐるりから降ってくるという見事な音響環境だった。裏山に上がると、残された広葉樹の林はすっかりうすっぺらくなってしまっていて、もうこれではヒメハルゼミの生存も危ういだろう。すくなくともあれだけの大音量の蝉しぐれを聞くことはできないにちがいない。

今年の夏には、銀杏の大木の下に毎日のように落ちているカブトムシの不思議に驚かされた。来年も観察ができるものと思っていたが、裏山が淋しくなり、銀杏もただの棒になってしまった以上、この珍現象を体験することはできないだろう。

がっかりして歩いていると、顔見知りの自治会長と偶然会ったので、話しかけて事情を少し聞くことができた。鎮守の杜の隣のお寺の大杉を切ったのは、住職からの要望だったようだ。斜めに生えて危なかったのがその理由だったそうだが、なるほど、その下にお寺の駐車場を新設している。切り株を見ると健康そのものですよ、と僕はいう。

鎮守の杜の木を切ったのも、管理上の問題なのだろう。すこしとがめだてするような口調になってしまって、自治会長も話を切りあげたかったようだ。僕は気まずい気持ちになって彼と別れた。

安全だと思った鎮守の杜が、民家の中にある大井始まった山伏の銀杏よりも無残に伐り倒されてしまった。ビオトープとしてヒメハルゼミの住処を守ってきた神社が、武骨な工事現場のような醜態をさらしている。

もはや住民が、神仏や自然への感性を失ってしまった世代に代替わりしてしまったせいなのだ。本当は僕だって彼らと感覚を共有しているのだ。仕方がないのだ、仕方がないのだ、とつぶやくしかなかった。