あまり乗り気ではなかったためか、最終日の午後にようやく観に行くことができた。そころが、当日は、宗像大社を中継点とする女子駅伝の大会が開催されていた。通行止めによる渋滞を迂回してようやくたどり着く。大会関係者も多く、秋の行楽シーズンもあって境内はにぎわっている。
少なくとも宗像大社内に設置された作品はどれも低調で、道行く参拝客の足をとめるほどの力はもっていないように思えた。それも仕方のないことだ。
宗像大社は格式の高い神社で、規模が大きく、境内の庭園や、重要文化財の重厚な本殿、それをとりまく巨木の森、初めに神が降臨したという里山の頂上の高宮、等々、現代人からみると異様な力の満ち溢れた異空間だ。参拝者は非日常体験を味わい、精神を高揚させているだろう。
そこに、神社と同じ文脈に沿って間借りしたような個人作品を置いても、突出した力を持つはずがない。神社の持つ文脈を逆手にとって異質の作品を突きつければいいのだろうが、芸術祭の趣旨からそれは許されないのだろう。
いじわるな見方をすれば、無関心な人には、神社の境内や鎮守に不法投棄された資源ごみくらいに見えてしまうのではないか。
パンフレットに作品紹介もないし、その場にキャプションもなかったのだが、今回観た中で一番の力を感じたのは、「神木の消失」という「作品」もどきだ。
樹齢550年というナラの神木は、ナラ枯れの被害を受けて枯れてしまったのちに、説明の石碑やら解説板やら、神木を取り巻く石の手すりやらをすべて撤去して、まるでそこに初めから何もなかったようにさら地にされている。
長く信仰を集めてきた本殿脇の神木である。神社の側に、ほんの少しでも本当の信仰心が残っているというなら、その場所を保存し、神木の霊をなぐさめる措置をとるのが普通ではないか。同じ場所にナラの苗木を植えて新たな命をつないでもいいだろう。
神木が枯れたのは、現在の境内の整備工事によって水みちが変わってしまったからだという説を唱える人もいる。それはともかく、自分たちの代で神木を枯らしてしまった責任を問われたくないという神社関係者の意識が働いているとしか思えない。痕跡さえ残さなければ、風評など消えてしまうだろうという自己保身は、現代の企業や政党等に通じるものだ。
作品「神木の消失」(境内の片隅のさら地)は、現代において神社組織ですらもカミへの信仰心を失った寒々とした現実を突きつけてくる。