丸山薫(1899-1974)の忌日に、薄い詩集を取り出す。いくら薄くても一冊読み通す時間も根気もない。結局、書棚にそのまま戻すというのが以前の自分だった。
しかし、今の自分は読書会での修練を経て、詩歌とはどんなものであるかのイメージを持てるようになった。
詩歌は言葉の断片だ。断片だから文脈を欠いている。誰もが納得するような普遍性の条件を、初めから持っていないのがその本性なのだ。そうすると、たまたまその断片が読者側の文脈(感覚、体質、思想、ツボ)にピタリとはまるという偶然によってしか、言葉の欠片である詩作品が輝くことはありえない。
これは、自分にかすりもしない面白くない作品が大量に存在する、むしろそちらの方が当たり前だということを意味する。どんなに世評が高くとも、自分にピンとこない詩を無理に読んでも学ぶところなど何もないのだ。この点が、しっかりした文脈をもった小説や評論との大きな違いだ。
自分が好きな詩人というのは、自分と潜在的な文脈の重なり合いが大きい詩人だろう。そうであっても、少しでもひっかかる作品は半分以下、野球の強打者の打率くらいだというのが僕なりの検証の結果だった。
丸山薫は僕が中学生くらいから好きな詩人で、大学入学後古書店で初めて買った全集がこの詩人のものだった。薄いアンソロジーに選ばれた作品など一目見れば、自分に面白いかどうか見分けられないわけがない。
そんなわけで、飛ばし飛ばし読んで、好きな作品だけじっくり読む、ということをしたら、短時間で読み切って、おまけに詩の面白さを堪能できた。美味しく煮詰めた果汁を味わうような風味がある。長く読ませてもらってきた詩人への感謝の気持ちさえ湧きおこった。
今回、新発見といっていいのは、詩集〈幼年〉の中の「城の奥」だ。落城までの様子を、童話の挿絵のような場面をつないで表している。その初めの部分だけを引用する。狂気の殿様の日常が幻想的に描かれる。現代語表記に変え、振り仮名等をおぎなった。
忠臣は閉め切った唐紙の外にひれ伏して諫言(かんげん)のお薬を先刻から調合しているのに/部屋のうちには脇息(きょうそく=ひじかけ)だけがころがっていた/簾(すだれ、みす)を抜け出た人の姿は飛石をつたい涼しい築山のかなた月明に遊んでいる (丸山薫「城の奥」部分)