大井川通信

大井川あたりの事ども

『宗教哲学骸骨』 清沢満之 1892

「日本の名著」の現代語訳で、久しぶりに清沢の『宗教哲学骸骨』を読み直してみる。初めて読んだのは、今村先生による現代語訳の文庫本だった。こんな風に宗教を、というか世界を語ることができるのかと驚いた記憶がある。

今読んでも、その簡潔でスキのない構成には圧倒される。まず、宗教の存在意義を説き、有限・無限の二概念を提示して、議論のアウトラインを示す。清沢の信仰とロジックは、生涯この有限無限論から外れることはない。

有限無限論を使って、まずは霊魂(自我、主体)を論じて、次に万有が転化する因果の理法を論じ、そこから善悪と宗教の目標である安心を説く。間然するところのない体系だ。スケルトン(骸骨)を名乗るだけあって、骨組みだけの印象があるが、後年の清沢の歩みを支え続けたものだけあって、けっして浅薄なものではない、噛めば噛むほど味わいがでる豊潤さがある。(ついでに言えば、この有限無限論は晩年の今村先生をとりこにしたものだ)

今回読んで、宗教の目標とする境地について、清沢が比喩的に説明する場面が面白かった。きわめて小さい書物ながら、こうした豊かな細部をもっている。

「社会の結合団体」において、その首領や総理は、その団体の「趣意説明」を体現しており、結合団体を自分の本体としてふるまうことができる。

「いま無限界の住者は、無限すなわち万有の全体を自分の任務とし、万有の痛苦を自分の痛苦とし、万有の歓楽を自分の歓楽とし、万有の本体を自分の本体とし、それによって無限美妙な霊的生活を営むものということができる」

有限が無限に到達するイメージとしてやや勇み足なところもある記述だが、冒頭の有限無限論で、清沢はこの事態をもっとさらっと記述する。

「宇宙間、おのおの一つの有限が主人公となるときは、他のいっさいの有限はそれの伴属となって、たがいに相い具足するものである。だから一対の主伴を挙げれば、つねに無限の全体を尽くすものである」「宗教の要点は、この(主伴互具の)関係を覚了(かくりょう)せしめることである」と。

ところで、この「日本の名著」では、清沢のこの宗教論の核心と、それを応用して浄土真宗を究明した小編『病床懺悔録』を並べて読めるように配置してある。すぐれた編集というべきだろう。

 

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