大井川通信

大井川あたりの事ども

日本的霊性とは何か

鈴木大拙の『日本的霊性』が面白かった。本書が提示する「日本的霊性」の概念はなかなか魅力的だ。著者も、具体的にわかりやすくその内容を説明している。煙に巻くような感じではない。説明の道具立てもシンプルで、繰り返しすこしづつ角度を変えながら照明を当てていく。

具体的な事例も、浄土系の思想と禅であり、あれもこれもという感じではなく、少ない人数を取り上げながらじっくりと論じていく。ここには確かに何かがある、と言う感じだ。鈴木大拙の言葉通りに受け取るなら、つまり彼の定義を受け売りして繰り返すだけなら簡単なのだが、どうもそれでは腑に落ちた感じがしない。

それで本の欄外にあれこれ概念図を描いたり、それを描きなおしたりして考えてみた。それでもまだすっきりしない。実は、今は原本が手元にないのだが、記憶をたよりに自分なりの理解に決着をつけてみたい。

まず、大拙は、自己と自己を超えたものとの間の矛盾や否定を出発点にする。自己のありようを否定し反省し、その底に超自己を見出すのだ。現世の生活にどっぷりつかっていることから距離をとって自己反省する。自分を対象としてとらえる。自分は二つに分裂し、今ある自分からずれた自分は、自分でありながら自分を超えたものになる。

これを大拙は「一人になる」という言い方をする。一人になることによって、はじめて世界の本体と出会う。これを僕は、自己が自らの「有限」に気づき「無限」と向き合うという風に、清沢満之風の語彙で理解したい。

実は動画で大拙の最晩年のテレビでの対談を見たのだが、宗教とは何ですかという女性アナウンサーの問いかけに、有限が無限に向き合うことだと答えていた。大拙も最期には清沢の定義を採用していたのだ。

では、自己が自らの中に見出す「無限」はどのような背景のもとに、どのような場面で立ち上がるのか、ということが問題となる。

ここで大拙が不可欠の要素として強調するのが「大地」だ。大地は天の恵みを受けとめ、そのもとで人間が生活するのを可能にする。自らの有限に気づいた自己は、自己が踏みしめる大地から広がる(自己を含む)宇宙全体を真の無限として実感することができる。

大地を基盤とすることで、自己という有限を、この無限宇宙の中心として位置付けることができるのだ。大拙は、これを親鸞の「自分一人のために阿弥陀如来がいる」という言葉で説明する。清沢なら、これを有限が無限との「主伴互具・有機組織の関係」を明瞭に理解することだというだろう。

大拙は、この事態には大地を踏みしめ大地の上で生活することが必要不可欠であることを主張して、大地のもとに立ち上がる有限・無限関係を称揚し、これを日本的霊性と呼んだのだ。