大井川通信

大井川あたりの事ども

『日本的霊性』 鈴木大拙 1944

中央公論社の「日本名著」の一冊で清沢満之を読んだついでに、ふと併せて収録されている鈴木大拙の『日本的霊性』を読んでみようと思った。

鈴木大拙(1870-1966)が清沢よりもはるかにビッグネームで多くの著作があって国際的に評価されていることは知っていたし、『日本的霊性』は岩波文庫版も手元にあるのだが、どうむ読む気にはならなかった。

禅の人というイメージで、西欧人相手に何か大風呂敷で煙にまくようなことを言っているような先入観があったのだ。それなら西田幾多郎を読む方を優先すべきだろう。そんな感じだった。

ところが実際に読んでみると、確かに大ナタを振るったような議論だが、骨太で核心を捕まえている印象が強い。さすがに海を渡って活躍した人だ。細部に目配りしつつも、首尾一貫して大胆に枝葉をそぎ落とした論法を展開している。そうでないと異文化の読者には通用しないだろう。日本の教団内部の教学者のようなぐずぐずネチネチとしたところがない。

たとえば普通の仏教の解説では、インドから中国、日本への伝播する中で、あくまで思想的論理的な展開を追うことになる。あくまで主体は仏教なのだ。しかし鈴木は、主体は日本の大地でありそれがはぐくむ霊性であるとみる。日本的霊性が、仏教という材料を使いこなして自らの姿を現したと考えるのだ。

仏教を自家薬籠中のものとして日本的霊性が姿を現すのが鎌倉時代で、一方は浄土系の思想であり、もう一方は禅であるとする。この時に至って、初めて仏教が大地の暮らしに触れ、親鸞のような宗教的な人格を生み出したからというのがその理由となる。

この「大地性」の強調というものが意外だったのと同時に、金光教研究とのからみで刺激を受けた部分だった。また、念仏三昧の妙好人の存在が大きく取り上げられているのは新鮮で面白かった。現代の書物は、知識人好みの親鸞ばかりを取り上げていて、妙好人のような庶民の信仰者を論じることは少なくなっているのではないか。

文庫版では削られているが、「金剛教の禅」について解説した章があって、禅宗様建築を子どもの頃から追いかけておりながら、禅について学んだことのない自分にはこれまた新鮮で興味深かった。

このタイミングで読むことができて本当に良かったと思う。