大井川通信

大井川あたりの事ども

『近代日本と親鸞』 安冨信哉 2011

著者の安冨信哉(1944-2017)が亡くなったあと、2018年に真宗文庫として再刊されたもの。

以前に末木文美士の論文集『日本の近代仏教』を読んだが、今回の本は、あくまで浄土真宗大谷派の「近代教学の伝統」の視点から明治大正期の社会の中での仏教の動きを描き出したのものだ。そのため、末木の本にあったような批判的で客観的な分析(たとえば近代仏教を仏教モダニズムと葬式仏教との重層性にみるような)はない。

むしろ宗派の自己賛美の雰囲気が濃厚で、その分だけストーリーとしてわかりやすいがやや底が浅い感じがした。ただ、宗派内の事情にうとい僕には、いくつもの発見があった。

まず、末木の本にあったように、日本の近代仏教は「大乗非仏説」というアポリアのためその改革に当たって教祖釈迦に立ち返ることがしにくく、浄土真宗でいアポリアり宗祖親鸞が大切なのだということ。この本自体親鸞の750回忌に記念出版された『シリーズ親鸞』の一冊だった。

あと、宗派における清沢満之の圧倒的な存在感である。この本はだから清沢論として読める内容で、清沢と宗派教団との関わりについてずいぶん勉強になった。関心のあった清沢の弟子の面々についても興味深い記述がある。

曽我量深についての解説の中で、明治以降の教学の中で、法蔵菩薩と本願の意義を強調したのが曽我の功績だと知ってなるほどだと思った。僕が聞法しているなかでも、その部分が信仰のクライマックスになっていることがわかるのだが、実はそこがわかりにくい。

清沢満之にはその視点がほとんどないのが不思議だったが、得心がいった。ほぼ完成形といえる清沢の「我が信念」からの「凋落」や「動転」を経験した弟子たちが、そこから信仰をさらに進めるために発見した論理が法蔵菩薩に「自己」を見出すというトリックだったのだろう。

それが信仰の深みと魅力を増して、近代人にとって思索や探求に耐えうる教学となったのはわかるが、しかしその複雑で我田引水めいたロジックがかえって人を遠ざける側面もあるのだと思う。