大井川通信

大井川あたりの事ども

M先生の格闘

今年も、アメリカから来日して浄土真宗の大学で研究をし日本で研究者になったM先生の話を聞いた。三コマの講義に質疑応答をあわせて4時間にわたる講座だ。外部からの参加者は優遇されるとかで今年は先生の目の前の席だった。すごい話を聞いてしまったという印象だ。(ただ例によって、手元に資料のない状態で書くので、細部ではかなりいい加減な話となる)

先生の日本語がきわめて流暢で、仏典の知識や解釈も日本の学者とまったくそん色がない。だから、聞き手は日本人同士と同じような感覚で講義を聞いているのだろう。質疑応答の時も、先生の前で自分の疑問点をより明確にして問いかけようという緊張感は感じられなかった。会の代表の方も、悪気はないのだろうが、「先生にしかできないことをしてください」と後進に対する励ましのような謝辞の言葉をかけていた。

とんでもない話である。僕らは、母語による強い後ろ盾と、日本のあいまいな宗教的風土にどっぷりつかって仏教を語っている。語らされている。親鸞は日本人のだれもが尊敬するような宗教家だし、浄土真宗のお寺は全国津々浦々で甍をそびやかしている。

そんな安全地帯の中で語られる言葉と語りに基づく姿勢には、残念ながら何の魅力もない。それが証拠に、きわめて真摯なこの聞法道場ですら新たに若い人たちを引きつけるだけの魅力や輝きをもってはいないのだ。

一方、先生は、母語による後ろ盾と、自分が生まれ育った文化的風土の支援が全くない所で、孤立無援の状態で、純粋な精神と化して、仏教という論理と向き合っている。語られている語彙は、日本人の学者や信仰者と同じだが、その背後にうかがえる精神のドラマはまるで異質で別物だ。

僕の乏しい仏教的な教養は、清沢満之の読書で得たものだが、先生の話には、清沢満之と同質の精神の高みを感じることができる。以前から羽田先生に話に清沢に近いものを感じていたが、アメリカで長く布教を続ける羽田先生にも「生命のすばらしさ」を語るような余裕がある。

とくにM先生の昨年の話は悲壮なものだった。数年越しの重苦しい離婚劇と最愛のお姉さんの重病がかさなる。日本に渡ってきた経緯と宗派や大学の現状に対する絶望が語られる。M先生は、それを信仰においてぎりぎりしのぐわけだが、その時、南無阿弥陀仏でも阿弥陀如来の本願でなく、「無量寿、無量光の因果」という論理を語ったのが、僕には清沢を連想させた。今の自分をめぐる状況は全宇宙の営みの結果である。無限の全宇宙からの「お育て」として受け止める。無限と一体であることが救いとなる。

清沢満之は『宗教哲学骸骨』で、宗教の本質を「有限」である私が「無限」に包摂されている関係を了解することだ、ということを述べている。阿弥陀の本願や南無阿弥陀仏は、そこに至るストーリーであり象徴であり方便であることを理屈として教えてくれる人はいても、実際の生の現場で、口当たりのいい象徴ではなく、その根底にあるロジックと向き合う人はまずいない。

日本人なら、南無阿弥陀仏の語感やふるまいによって呼び覚まされる暖かいもので救われるところ、M先生は、有限無限の厳しいロジックに直に向き合う。

ところが、今年の講義では、M先生の表情が少し穏やかだった。講義の後半に入って、先生は昨年の講義の直後にお姉さんの最期をみとったこと。この一年で再婚を果たし、二週間前に新居を決めたことを話してくれる。ただ、予想外の事態はすぐにでも先生を襲うだろう。当然ながら昨年ほど切迫した感じではなかったが、無量寿(無限)による「お育て」の話を先生は繰り返した。

私生活上の出来事を単なるエピソードではなく、教義を読み解くことと地続きであるように精神を傾けて語るM先生に、ほんとうの信仰者の姿を見た思いだった。二年間にわたって、すごい話を聞いてしまったという思いはそういうことだ。しかし、僕は先生の話を聞きながら別の事も考えた。

有限無限の厳しいロジックを精神において受け止めることができるのは、やはり一握りの稀な人々ではないか。無限の宇宙と向き合って、その無限の因果を我が身体と生命で受けとめて、それを「お育て」として生きること。震えるような緊張感あふれるM先生の言葉と姿を目の当たりにして、それがいかに困難なことかを実感できたような気がした。

一方、家族の病の回復を願うことや、結婚生活の幸せを願うことが、自己中心性から発する煩悩であるとして、仏教の論理でバッサリ切り落としてしまうことが本当に正しいのか、という思いもある。我々の生の現場に根差した、良いことに向けての願いというものは、ほんとうにそんなに底の浅いものなのか。どうせ思い通りにはならないという斜に構えた達観が、本当に素朴な願いを生きるよりすぐれた態度だといえるのか。

たとえば、金光教では、天地金乃神という「無限」(これは人間の尺度からすると恵みでもあれが災厄でもある)へと、人間の「願い」を取り次ぐ金光大神という媒介者の存在が信仰の核心となる。

金光大神自身が、悩みを抱えた人と一対一で対面し、その願いを神に届けることに生涯をささげた人だ。この伝統は、現在も引き継がれ、現在の教団トップの「金光様」も、一年365日毎日教会に出て、朝から晩まで参拝者の区別なく、その悩みを聞き届けて、天地金乃神にその願いを届けている。

信者たちは、ともに願ってくれているという金光大神のふるまい(これには以上のような現実的な裏付けがある)を信じているから、安心して自らの願いをまっすぐに祈ることができる。そしてこのワンステップをはさむからこそ、人生上の様々な苦難を、いわば「おかげ」(無量寿のお育て)として受け止めることができるのだ。

 

 

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