大井川通信

大井川あたりの事ども

浄土真宗の門法道場で

市内の某所で、浄土真宗の講義を聴く。時々ではあるが、もう10年以上お世話になっている門法道場だ。宗門の事情はよくわからないが、本願寺派大谷派などの大宗派ではなく、比較的小さな団体に連なるグループのようで、戦後に福岡教育大学の化学の先生が、学生たちを募って始めた会らしい。

今回の公開講座の参加者が、会場で20名、ネットで10名程度。ほとんどの参加者が僕よりも高齢に見える。実にまじめな勉強会だし、若年層向けの取り組みにも熱心だが、若い世代への継承には成功しているとは言えない。

敗戦後、高度成長期くらいまでに盛んだった様々な政治運動や宗教運動は、それ以降衰退を余儀なくされている。個人的な実感でも、80年代以降の消費社会の席巻とともに、自己利益追求が至上命題とされて、徐々にそれを超える理想や理念のリアリティを食い破ってしまったような気がする。

講師はアメリカ出身の大学の先生だった。20歳の頃に危機があり、服薬をして20年間後遺症が続いた。その時アメリカで仏教と出会い、その後、浄土真宗を世に広めたいという志をもって日本に留学してきたという。

その後20年間研鑽を積んできたが、日本においても宗門も大学も、いや宗教的なものさえ先が見えなくなっている。しかし、それさえ無量寿の結果として受け入れられるという。

全宇宙の全歴史(「無量寿」)と一体であることを存在の根底(永遠の成就)と見出す認識は、『中国浄土三祖の往生観』という演題の込み入った議論の中にも貫き通されていて、曇りがない。

それどころか、身近な生活上の危機や肉親との別れという事態にたいしても、直にこの認識をもって迫りそれを貫こうとする。その一語一語が西欧的な合理主義との対決(異文化の洗礼)を経由しているためか、清澤満之の『宗教哲学骸骨』や「精神主義」をほうふつとさせるものだった。

朝九時から午後三時までの長丁場だったが、予想に反してまったく退屈することはなく、こころよい緊張感に満ちていた。帰宅後、金光教の教会長のところに本を返しに行ったついでに、講演で感激した話を長々と立ち話してしまったほどだ。

そのあと、理解や中身の薄さをかえりみず、講師あてにお礼のメールを一気に書き上げた。