〇〇会館での講演会を、一般参加者として聞かせていただいた者です。先生のお話に大変な感銘を受けて、お礼のメールを差し上げたくなりました。
正直なところ、真宗の信仰を持たない自分が、先生の専門的な議論を理解できるのか疑問で、参加をためらっていました。以前羽田先生のご本を手配していただいたお礼だけを言うつもりだったのですが、予想外に先生のお言葉の一言一言が直接に胸に突き刺さり、特別な知識も関心もないテーマだったにもかかわらず、そのことが理解の障害にならないという不思議な体験をしました。
私自身の仏教体験は、以下のものでしかありません。
学生時代(すでに40年も前のことですが)他大学だった今村仁司先生のゼミにもぐり西欧哲学の手ほどきを受けました。晩年の今村先生が傾倒した清澤満之を理解したいと思い、一人で少しづつ読み進めていたときに、〇〇会を知り、羽田先生の話を聞くことができました。
清澤満之では、何より『宗教哲学骸骨』で、哲学的思考が宗教に肉薄しうることを知りました。先生の今回のお話は、その比類ない明晰さで『宗教哲学骸骨』の世界に通じるものだと私には思えました。
羽田先生のお話は、国内の仏教や寺院の関係者とは全く違う感触、直に胸倉をつかんでくるような迫力と切迫感、言葉の真摯さ、清潔さのようなものを感じました。
羽田先生の持つ魅力の不思議さがずっと気になっていたのですが、今回先生の話に同じものを感じて、自分なりの仮説がほとんど確信に変わりました。
インドで生まれた仏教が、中国、日本へと文化と言語の壁を通り抜けることで、その生き生きとした核心がつかみ直されて保持されてきたように、体制化されて生ぬるくなった日本仏教も、単身海を越え、文化と言語の壁を突き破った羽田先生やコンウェイ先生にような方によってこそ、その核心が取り出されているのではないかと。
清澤満之も日本人として初めてヨーロッパ哲学という壁に立ち向かった人でした。
無教養な人間の知ったかぶりにすぎないもので、お恥ずかしい限りですが、先生の講義のすばらしさを、このように受けとったという正直な感想として書かせていただきました。
先生に出会えて、自らの宗教的なものへの姿勢に対して、たいへんな励ましを受けたような気がします。もっとしっかり勉強して、またいつか先生のお話を聞いてみたいと思います。私自身の、目下の勉強の中心は、金光教や黒住教などの日本の民衆宗教になっていますが、先生のお話をうかがって、宗教的なものの本質は変わらない、という思いを強くしました。
世界に仏教を広めようという志をもって日本に渡って、どうもそれはかなわなかったというお話しをされましたが、先生ご自身のあり方によって、日本の仏教を救っているというように拝見いたします。
先生の悩みの種であるメールを増やしても、このことをお伝えしたいと思って、書かせていただきました。先生のご健勝とご活躍を、九州の地よりお祈りしています。乱筆乱文失礼いたしました。