大井川通信

大井川あたりの事ども

『飛ぶ男』 安部公房 1994 

安部公房(1924‐1993)の没後、フロッピーディスクに遺されていた作品で、生誕100年に合わせて、データに忠実な形で文庫化したものらしい。

『他人の顔』の文庫本解説で大江健三郎が、安部は短編の名手だが、長編になるとバランスの悪いものを書きがちであると書いていて、なるほどと思った。

安部の初期の短編は、若い頃に読んでとても面白いと思っていた。中編も問題なく読ませる。しかし長編になるととたんに読みにくくなって、とくに出だしでつまずくことが多い。『方舟さくら丸』でさえそうだった。ストーリーが遅々として進まず、独白がやたらに長いのだ。独特の比喩を交えた文体は、平明に見えて読み飛ばすことが難しい。ネットで安部の小説は読み終えたことがないと書く人を見つけて、なるほど読みにくいのは僕だけではないのだと納得する。

「飛ぶ男」は未完成の原稿で、文庫本で130ページくらいの中編だが、思ったよりずっと読みやすく面白かった。

飛ぶ男の登場と、窓から侵入されるアパートの住人と、飛ぶ男を空気銃で撃ってしまう隣室の女。情景が鮮やかに目に浮かぶようで、一幕物の舞台になりそうな魅力的な設定だ。本職が手品師である飛ぶ男は、男の能力で一儲けしようとする父親から逃げ出してアパートの兄を訪ねたのだという。この兄も、隣室の女も一癖も二癖もありそうでキャラが立っている。お互いに男女の関係を意識する展開も興味をそそる。

これは完成させてほしかったと思う。独白や理屈や細部の知識の書き込みが増えたとしても、大本にこの設定とストーリー展開の謎があるなら大丈夫だろう。

50頁ばかりの「さまざまな父」という未完成原稿も収められているが、こちらは、「飛ぶ男」の前日譚ともいうべき内容で、透明人間になった父親と後に飛ぶ男になる息子との関係が描かれている。さほど魅力的なエピソードとは思えないが、長編の一部に組み込まれるくらいならいいだろう。

3月7日は安部の生誕百年の記念日だ。今年中には、短編も含めて文庫化されたものくらいは読み切りたい。