大井川通信

大井川あたりの事ども

『他人の顔』 安部公房 1964

いくつかの手記で構成されている小説という形式のためもあるのだろうが、主人公の男の自分語りがえんえんと続く。理系らしいモノのディテールの対するこだわりと、際限のない論理癖。系統的に読んでいるわけではないから確かには言えないが、安部公房の後期の長編を近づきにくくしている文体が、全開となったような作品。

そのために劇的な場面などはなく、読者の興味をひきそうなストーリーの展開も理屈の海に沈められて、その輪郭も帰趨もはっきりしない。このため、この作品をかつて読んだことがあったかどうか最期まで確証をえられなかった。

研究中の事故による火傷で「顔を失い」、それと同時に他人との交流の経路を失った科学者が、本物そっくりの薄いプラスティックの仮面をつくり、それを被ることで失ったものを取り返そうとする。しかし仮面によって人格のコントロールを失った彼は、妻を誘惑して浮気をするようになるが、主導権を握ろうとする仮面と奇妙な三角関係を味わう。その関係を解消するために長い手記を書いて妻に告白しようとするが、実際には妻は仮面に気づいていてそれを受け入れてくれていたのだ。しかし夫の身勝手さにあきれた彼女は夫の前から姿を消してしまう。仮面を捨てるつもりだった男は再び仮面をとって捨て鉢にモノローグの外へと飛び出していく。

まず、多少上等な材質を工夫して作ったという仮面が人間の顔として普通に通用するという「疑似科学」が時代を感じさせる。安部のSFの独特の雑なノリだ。

仮面や素顔をめぐる堂々巡りの思弁につきあうのはきつかったが、安部の理屈がピタリと対象を射抜く瞬間があることと、なにより顔という問題の切実さから共感できるところがあって、なんとか読み通すことができた。

本作から半世紀以上過ぎて、顔や仮面をめぐる状況はもっとずっと複雑になっている。整形は日常化し、男性の美容や化粧も当たり前になっている。画像で自分の顔を盛ることが日常化し、ネット上では本人とは別の顔で動画を見せることができる。コロナによって数年の間、全員がマスクで顔の大部分を隠して生活することを経験した。

物理的な仮面一つに自分の運命の逆転を託せざるを得なかったからこそ、彼は自分を仮面に乗っ取られることになった。様々な仮面と多様な交信の手段が万人に与えられた現代では、そんな「疎外論的状況」は起こりえないだろう。

ところで、主人公は、顔を失うということは自分一人の問題で、社会問題にはなりえないと言っている。だからこそ、このテーマが文学で語られたのだろう。ところが今は、顔の見た目のことも社会問題として語られるようになった。広くはルッキズムが問題にされ、主人公のような人たちは「ユニークフェイス」の当事者として啓蒙活動を行っている。

三島由紀夫の『仮面の告白』を読んだ時も感じたのだが、かつては自分一人によって抱えこまれて文学作品へと昇華されたようなことが、現代ではマイノリティの権利主張という文脈と通路を獲得するようになった。

たとえば一昨年芥川賞をとった『ハンチバック』(市川沙央)ような作品は、ある特別な個人を描いた文学としてでなく、すぐにマイノリティの権利主張のような文脈で読まれがちだ。そうすると作品固有の問題(自分一人の問題)は見失われてしまうだろう。