大井川通信

大井川あたりの事ども

『野分』 夏目漱石 1907

漱石(1867 -1916)の未読の中編を読んでみる。新潮文庫では『二百十日』といっしょに収録されている。小説としては未完成というか実験的な感じでごつごつしており、読みにくくあまり面白くはなかった。

学問の理想に生きようと既に達観している元中学教師白井道也(どうや)と、かつての教え子で師の理想に共感しつつも腰の据わらない高柳君と、その友人でいわゆるリア充恋愛至上主義者中野君との三人が登場人物である。とくに高柳君は、結核と「一人ぼっち」という身体と心の病に侵されており、本来は当時の若い知識人の苦悩を背負う人物だったのだろう。

ただどの人物も、無理な設定に引きずられているようで、生きた人間という気がしない。『吾輩は猫である』の登場人物がひからびてユーモアが抜けてしまったような感じだ。

白井の人となりを紹介したあと、若い二人を登場させて、それぞれと白井が偶然の関わりを持っていくという構成上の工夫があるのだが、人間関係がどうにも薄っぺらくて説得力がないのだ。白井は世間に対して吠えているばかりだし、高柳との師弟関係も深いものではなく、中野と高柳との間柄も通り一遍の友情に見える。このあと、漱石が人間を深く描くために「三角関係」(模倣と競合)を中心に据えるようになった理由がわかる気がする。やはり、人間は関係的な存在なのだろう。

作中の論文や講演を通じて、白井の主張が明らかになるが、基本的に「学問と人格」と「世間と金」とを対立させて、前者に軍配をあげるという構図一辺倒だ。漱石の評論はもっと面白かったはずだと思い返してみると、そこには西洋対日本という大切な対立軸があった。しかしこの軸を一般の読者相手に説明することは困難だろう。小説に啓蒙の要素を持ち込むことの限界に漱石も気づいたにちがいない。

漱石にはこの作品のあとに9年ばかりの時間しか残されておらず、その中で代表作の数々を書き残したことには驚かされる。驚くべき成長力というほかないが、それまで研鑽し蓄積したものの次元が違ったということなのだろう。