大井川通信

大井川あたりの事ども

『ダロウェイ夫人』 ヴァージニア・ウルフ 1925

一昨年、読書会でヴァージニア・ウルフ(1882-1941)の『オーランドー』を読んで面白いと思った。その時買って積読になっていたこの文庫本を今頃になって手に取ったのは、知人の英文学者高野さんが今ウルフをまとめて読んでいると聞いたからだ。

読み始めると、予想よりはるかに面白かった。集英社文庫の手触りと訳文の良さも大きいのだろうが、1923年6月のある日(13日らしい)のロンドンに舞台を限って、当夜のパーティーに向かう少数の登場人物(彼らは意外な交錯をみせる)に絞って物語を展開する構成と、細部の言葉の豊かさや巧みさが読みを促すのだろう。

一人の人物の内面を語る言葉が、対面する別の人物の言葉に入れ替わる。それどころか街路にたまたま居合わせた人々の間で、言葉の主導権は次々に移っていく。突然の車の事故や飛行機の登場、鐘の音などに注意が向き、意識が自己から引き剥がされるタイミングで、別の人物に語りが引き継がれる手法は鮮やかで印象的だ。

語りの主体が、人々の区切りを軽々と飛び越えるのと同様に、各人の語りにおいても現在と過去の壁は取り払われ、意識は記憶の中を自由自在に飛びめぐる。

このような実験的な手法にもかかわらず、読み手は小説の語りに心地よくスムーズに導かれていく。これは人間の意識というものが、もともと個にも現在にも閉じ込められていないということの証左ではないか。

一つの鐘の音をきっかけとして、隣人の老女との関係に思いをいたすクラリッサ・ダロウェイに、以下のような問いが浮かぶ。「実際、まさにこれこそが至高の神秘なのだーこちらにひとつの部屋があり、向こうにもうひとつ部屋がある、ということが。ほんとうに宗教はその謎を解いたのかしら?あるいは恋愛が?」(228頁)

こんなふうにこの小説には、世界の成立のぎりぎりに触れるような認識が書き留められていて、それが大きな魅力となっている。身勝手な本音が「だだもれ」する登場人物各氏には、特別に引き付けられることはなかったけれど。

ちょうど100年前が小説の舞台であるため、今に置き換えて時間の流れは類推しやすい。メインの登場人物たちは僕よりだいたい10歳若い人たちだが、彼らが10代で出会いを経験した田舎暮らしが90年代初めだというから、今でいうとバブルの崩壊の頃だな、というふうに。

ただ現在とは違って、直近の10年代に第一次大戦という大きな戦争を経験している。クラリッサたちの過去ともパーティーとも関係のない、大戦で従軍し精神に傷を負った若者セプティマスの存在感が異様に大きいのはそのためだろう。

来月の13日は、ダロウェイ夫人の舞台の一日からちょうど100年となる。僕も、街や公園を散歩しながら、パーティーの空想でもしようか。

 

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