大井川通信

大井川あたりの事ども

独歩のナショナリズム

三島由紀夫の『憂国』を読んで奇妙な気分になった。絵に描いたような美男美女のカップルが、性愛と正義とが一致する行為として切腹自死を選ぶ。その動機であるはずの国を憂うる気持ちも反乱将校への共感も、ほとんど具体的には描かれておらず、閉ざされた空間における観念的な実験のように見える。そしてこの実験室は、外部のどこにもつながっていないのだ。

独歩の命日(6月23日)が近づいているので、読みかけの短編集を手にとった。どれも面白い。文庫本で5ページにみたない「遺言」は、特別優れた作品ではないだろうが、国のために死のうとする人間を描いて、『憂国』よりはるかに説得力があり、心を動かされる。「天皇陛下万歳!」が結語の短編なのだが、僕がふだんこの言葉に抱くはずの嫌悪感をほとんど感じさせることのない読後感なのだ。

日清戦争で中国の出陣した戦艦の中の出来事。酒を酌み交わす水兵たちが、各人の恋人からの手紙を読みあうという余興のなかで、一人の水兵が母親からの手紙を読まされるはめに陥る。初めはつまらないと騒ぐ水兵仲間も、それが死に際の遺言であり、未練なく国のために命を捧げよという内容に、一同が感激する。

母親がいうには、明治初期に父親が明治政府への反乱軍に加わったために、肩身の狭い思いをしてきた。命に代えて父の罪を償い祖先の名を高めよ、と。忠義には士官も兵士も軽重はない。兄などはせめて軍夫になりたいといっている。上官の命令をよく守り、兵士同士助け合って国のために働きなさい。

この手紙に、先ほどまでこの水兵ともめていたはずの一人が、「〇〇君万歳!」の声をあげる。それを聞いていた上官の口からは「天皇陛下万歳!」が飛び出す。

ここにいるのは、俗にまみれた兵士たちであるが、それがどんな経緯と関係のなかで忠君愛国の観念を共同で担うことになるかが、具体的に描かれている。これこそが三島の『憂国』に欠けている部分なのだ。