大井川通信

大井川あたりの事ども

美は退屈である

モームの小説『ビールとお菓子』から。

「美は恍惚であり、空腹のように単純だ。美について何か語るべきことなどありはしない。バラの香水のようなもので、香りを嗅いで、それでおしまい。だからこそ、芸術の批評というのは、美と無関係つまり芸術と無関係であるものをのぞけば、退屈なのだ。ティツィアーノの『キリストの埋葬』はもしかすると世界中の絵画の中で最も純粋な美を持つといえるかもしれないのだが、批評家がこの作品について言いうることは、実物を見てきなさいというだけである」

「美は袋小路である。山の頂上であり、到着したらあとはどこへも通じていない。だから我々はティツィアーノよりエル・グレコに、ラシーヌの完璧な傑作よりもシェイクスピアの不完全な作品に、より多く魅了されるのである」

 

『お菓子とビール』 サマセット・モーム 1930

モーム(1874-1965)の小説は面白い。僕に小説を読む楽しさを与えてくれる数少ない作家のひとりだ。5年ばかり前に、読書会の課題図書をきっかけにまとめて読んだ時期があったのだが、その後で思いついて買っておいた文庫本の頁をめくってみた。

とにかく登場人物一人一人が生きている。語り手の作家のアシャンデンにしろ、友人作家のロイにしろ、ロイが評伝を書こうとしている大作家ドリッフィールドにしろ、そしてもちろんその妻のロウジーにしろ、とても個性的で魅力がある。作家のタニマチであるミセス・バートンや、晩年のドリッフィールドの世話をやく新妻などは、(あるいはロウジーの愛したケンプ殿も)小説の中では損な役回りを引き受けてはいても、キャラクターとして生命を宿していて、単純な悪役にはなっていない。

よけいなことだが、最近の日本の本屋大賞に選ばれるようなベストセラーは、設定とストーリーで人目を引くものはあっても登場人物に厚みが感じられない。周辺の人物になるとなおさら役割だけのカキワリだ。いったい何が違うのか不思議だ。当たり前に言ってしまえば、人間と人間がおりなす事象に対する視力とその解析度の圧倒的な違いということだろうか。

一方、モームのこの小説は、ストーリーだけ抜き出すとどこが面白いのかわからない話だ。アシャンデンは、ロイから、ドリッフィールドの評伝を書くための情報提供を求められる。アシャンデンが少年時代と学生時代に、同郷のドリッフィールド夫妻とつきあいがあったからだ。承諾したアシャンデンは、アシャンデンの旧宅にロイと一緒に未亡人を訪ね、その地で思い出のメモを書くことを約束する。

ここまでで小説は終わる。アシャンデンがどんなメモを渡して、ロイがどんな評伝を完成させるのかもわからない。ただ、このなんていうことのないストーリーのあいまに、アシャンデンの少年時代の出会いからドリッフィールド夫妻に関する思い出が差しはさまれる。

この過去と現在との時間の行き来が自然で、人がどんな風に過去を生きているか、それをどんな風に思い出して今とつなげているのかを、さりげなくしかし高度な形で示唆しているのだ。その中で、作家ドリッフィールドの奇妙な人格と、その妻ロウジ―の発散する魅力が、体裁重視のイギリス社会を背景にして見事に描き出されていく。

クライマックスは、医学生アシャンデンとロウジーとの関係が深まる場面だろう。しかし回想は閉じられ、すべてが過去に消え去ったと思わされた瞬間に、思わぬ形で「ハッピーエンド」が訪れる。

タイトルもそうだが、全編に明るさと軽さがある。深刻ぶらずに、しかし人間というものの真相をぶれずに描きつくす筆は変幻自在だ。

 

 

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次男の入校式

次男の障害者職業能力開発校の入学式に夫婦同伴で参加する。次男が入学する総合実務科(知的障碍者対象)の人数は3名で、専属のスタッフの数も同じだから手厚い指導が受けられるだろう。親はどうしても欲目で見てしまうが、次男のコミュ力はかなり限定的だ。大人からあれこれ言われながらやるのが、本人にとっては気楽なんだろうと思う。仕事で自主性を重んじられ、そのためマルチタスクになるのが本人にはストレスなのだ。

昨年4月から実質的に仕事を休んで、義務教育以来の疲れをとって、ずいぶんのんびりできたはずだ。引きこもっていたわけではなくて、温泉施設や買い物に定期的に行って楽しんでいた。学生時代の知り合いと会っている気配がないのは、彼の障害の特性によるものだろうから、無理強いしたり心配したりする必要はない。後半は自動車教習所に通ってなんとか結果を出しつつある。

訓練校では、毎日体力づくりのための体育と農作業の実習があるそうだ。片道1時間かけての通学生活で、この一年間の生活リズムを立て直すことができるだろう。うまく就職へとつなげてくれたらいい。

一年間のコースだが、実際には就職が決まると年明けくらいに退校するケースが多いそうだ。本来なら来月に切れる給付も退校までは継続される。若干の訓練手当と通学費用の実費もでるようでありがたい。専門家に本人の特性を踏まえた就職のアドバイスをもらえるのは何よりうれしい。

介護職は、親の考えで勧めたものだから本人の気持ちと能力には見合っていなかったのかもしれない。事実としてある障害を前提として、こうした公的なサポートを十分に利用しながら、ストレス少なく生活していく道を、これからも次男といっしょに見つけていきたいと思う。

特別支援学級等での級友たちの顔を思い浮かべると、こうしたサポートを必要としている人たちは少なくないのだと思う。情報が届いていないのかもしれないし、その情報を活かせる環境にないのかもしれない。

午前でオリエンテーションが終わり、帰りがけ、JRと市営バスの定期券の購入で手間取ってしまった。高校の新入生たちで窓口が混んでいたからだ。次男も在学証明で大学生の割引料金が適用された。いざ新生活へ。

 

臼杵石仏に驚く

国東市に一泊して、さて翌日どうしようかと悩んだ。前日に国東半島は一人で堪能している。今日も再訪では刺激が少ない。それで足を延ばして臼杵まで行くことにした。別府、大分市の先の臼杵を訪ねる機会は今までなかった。石仏が自慢といっても、それなら国東半島で十分味わえる。

ところがこの認識はまったく間違っていた。石仏(摩崖仏)のレベルが圧倒的で、国東半島とは比較にならないほどなのだ。

魅力のある石仏であることは写真情報でわかる。しかし実際に行ってみて驚いたのは、その密度の濃さと集中度だ。ひとかたまりの見事な石仏群が4つ、小さな里山の斜面に並んで存在していて、遊歩道を歩くことで簡単にアクセスできるのだ。そこからは里山に囲まれたのどかな集落を見下ろすことができる。

石仏の尊顔は木彫と思えるほどに繊細で優美だ。しかし、身体の部分の処理は多く簡略化され岩の一部をなして風化も進んでいる。その対比が余白をいかす近代絵画のようで面白い。まるで岩盤から石仏が命をもってせり出してきたような印象なのだ。大陸の石仏群のような雄大さはないが、それに準ずる規模と日本的な繊細さを持っている。

国東半島の遺物は、大きな競合する勢力によって残されたものだろう。臼杵もそうなのかと思っていたが、その立地は、僕が普段歩いている旧大井村のような一村レベルのものということが意外な驚きだった。残念ながら見落としてしまったが、集落内には石仏を彫らせたといわれる長者と仏師の石像が残っているようだ。観光地としてきれいに整備されているが、全体的にのどかであくせくしたところがないのも良かった。

臼杵の中心部の城下町は、期待せずに立ち寄ったが雰囲気のよいところだった。かつてそこだけ島だったという城跡がシンボルとなって古い城下町を見下ろしている。街並みも良く残っていて、江戸時代の三重の塔があった。小ぶりだけれども、江戸の割にはとてもプロポーションがいい塔で、重要文化財になってもいいように思えた。

 

 

富貴寺大堂を観る

妻の送り迎えで国東半島に行く。メタルアートの先生のアトリエで、べっ甲アクセサリーのワークショップがあるためだが、その待ち時間、僕に自由時間ができた。国東半島は若い頃から好きで、何度も来ているので、いざ自由行動できるとなると行先に困る。そこで富貴寺に行ってみることにした。

先日、東京国立博物館金色堂展を観たので、あらためて平安建築の阿弥陀堂を観たいと思ったのだ。今まで何度か訪ねているが、今回も期待を裏切らなかった。

材が太く、作りが粗削りで堂々としている。規模は小さいが「大堂」と名づけられた理由がわかるような気がする。外回りの柱は太い角柱で、大きく面取りがしてあり迫力がある。中世以降の建築のように、穴を開けたり溝を掘ったりして柱を器用につなげたりはしていない。太い横材(長押・なげし)を柱の上部と足元にバンバンと打ち付けてあるだけだ。軒もおおきな舟肘木で支えられておりシンプルだが力強い。

軒から上は近年復元されたものだそうだが、優美に反った垂木と屋根の形状には少し違和感がある。素人考えだが、もっと直線的な意匠の方が、この大堂には似合いそうな気がする。

内部に入ると、内陣は丸い四本の柱(四天柱)で支えられ、天井も一段高くなっている。阿弥陀仏の周囲の壁や柱には、極彩色の浄土図が描かれており、今でもかすかにそれらを見て取ることができる。板壁と板戸で囲まれた堂内は閉鎖的で暗く、浄土図のほかには目を奪われるような意匠に乏しいから、浄土の世界に深く没入できるだろう。

平面は、前面が三間、奥行きが四間の縦長で、内陣の柱筋は外陣とはズレていて、外陣前方の空間が広くなっているのが、平安末のこの堂の工夫だ。今は仕切りが設置してあるから、内陣の周囲をめぐることはできない。

富貴寺を出た後、国東半島の中心に近い両子寺(ふたごじ)に向かう。ここで富貴寺大堂とそっくりな建物に偶然出会った。平成に再建された大講堂である。その名称とは異なり、阿弥陀三尊をまつった阿弥陀堂である。国東で阿弥陀堂を作るならやはり富貴寺をモデルにするだろう。さすがにやや線が細いものの、違いは外回りの柱が角柱でなく円柱であることと、組物が舟肘木でなく平三斗であることくらいだ。

堂内の印象も富貴寺と変わらず、内陣の壁画は極彩色の浄土図で、ここでは内陣の周囲を自由に歩くことができる。かつて阿弥陀堂では、阿弥陀仏の回りを歩きながら念仏する行がおこなわれていたという。僕は人がいないことを幸い、念仏を唱えながら、外陣を何周も歩いた。あこがれの空間体験が、思わず富貴寺大堂とそっくりな堂内で実現したのだ。

 

 

道玄坂の100年(つづき)

先月18日の父親の生誕百年の記念日の記事で、渋谷道玄坂のカフェでお祝いをしたことを書いた。その文を、次のように結んだ。

「渋谷にあふれる人の波を見ながら、この中に父のことを知る人が(僕以外)誰もいないということを、当たり前でありながらとても不思議なことのように思って、ぼんやりしていた。」

素人の作文とはいっても、ある程度の首尾一貫性や起承転結といったルールは大切だ。そのうえで、通り一遍でない独自の発想や切り口、感覚を盛り込む必要がある。渋谷のカフェでの感情の動きを反芻してなんとかひねり出したのが上の文章だが、その不思議さの中身について自分なりの答えがあるわけではなかった。ちょっとかっこいいことを言っただけではないか、と反省する気持ちもあって、ひっかかっていた。

ところが、井手先生の義理の父親(前平尾教会長)の3回忌のお祭があると聞いて、ふと閃いた。誕生日は僕の父親とさして変わらないものの、生まれ育った土地で大勢のゆかりの人々に祈られるというのは、父親とはまったく違う。

それから大井川歩きの経験が頭に浮かぶ。先祖代々の土地で暮らした人々は、その土地で聞き取りすれば、さまざまな記憶を呼び覚ますことができるのだ。大井川周辺の聞き取りで僕自身がそれを体験してきた。

つまりこういうことだ。かつての日本人の当たり前の暮らしの中では、100年前に生まれた人の記憶をその土地に住む人々の多くが保持しているという事態がごく自然だったのだ。土地の風景が一変し、そこに集まりごった返すすべての人が、100年前にここで確実に生まれた父親のことを知りもしないという事態は、この観点からみれば驚くべき不思議な出来事といえるのである。

 

 

 

父が書いたもの

あらためて考えてみると、父は書いたものをほとんど残さなかった。今のように誰もがSNS に手を出すような時代ではないから、一般の人が何かを書いて発信するということは稀だった。ただし、父は文学好きで、小説以外でも思想や詩歌、古典についての専門書も読み込んでいたし、原稿用紙や日記帳に書き物をしたり、短歌を作ったりしている姿を見たことがある。書くことを苦にしていなかったし、文章は巧みだったと思う。

勤務先の工場で、工場長クラスの人にあいさつ文を頼まれて原稿を作っていたこともあった。社内では出世を望まず平社員のままだったが、本好きのインテリという評価はあったのだろう。全国的な社内報に、顔写真入りで長めのエッセイを書いたことがある。

なんでも整理してしまう父親だが、さすがにその社内報は取ってあって、結局それが唯一の「遺稿」になった。数日分の日記の抄録という体裁をとって、季節の移り変わりや家族の様子、短歌集の感想などを交えた、実に達者な素人離れしたエッセイである。永井荷風の『濹東綺譚』が好きでよく朗読していたが、なるほど荷風張りの名調子だ。

知人が自分の父親の告別式参列のお礼に、小さな文集を作って配布したことが印象に残っていた。知人の父親が実績ある教育者だったからできたことだが、僕もそのアイデアをマネすることにした。

といっても僕の父が残したものは、この社報の文章と、手書きの原稿が一枚だけだ。行分けされた詩のような原稿は、葬儀の朝に、偶然中島敦の小説の一節を書き写したものであることが判明した。その二つの文章を、薄いグリーンの上質紙にコピーして、葬儀の参列者に配布することにした。

参列者は父親と付き合いの長い親戚がほとんどだから、手書きの文字と顔写真入りの古い記事で、父を偲んでくれたのではないかと思う。父も若干得意だったのではないか。

先月、渋谷道玄坂で父の生誕100年のお祝いをしたものの、父に関する情報の少なさに、もう少し自伝めいた記録を残しておいてくれたらと残念に思う気持ちもあった。十分書き残す力のあった人だからだ。しかし、そういう文章があったとして、果たして僕はそれを読んだだろうか。父親からもらった手書きの手紙はかなりあるが、今まで僕はそれを読み返すことはなかった。

親子とは、たいていそんなものなのだろう。僕は自分の書いたものを取っておく習慣があるから、紙ベースでもかなりの文章が残っているし、このブログ記事だけでも、すでに2500以上の記事がある。もしうまく伝われば、自分の子どもがそれを読んで、僕の人生を再構成する手がかりにはなるだろう。しかし、子どもはそんなことに興味を持たないだろうと思う。

それ以上に、僕自身も(特に子どもに)何かを残すという気持ちを持っていないことに気づく。自分の経験や過去を書いているとしても、それはあくまで自分のためだ。父がほとんど何も書き残さなかった理由が少しはわかった気がした。

今日で父が亡くなって18年。

 

 

 

 

 

 

柳川異聞

午後の空き時間を利用して柳川に行く。自宅から柳川まで自動車で行くとなると、かなりおっくうな長旅だ。しかし、職場のある福岡市から西鉄電車の特急に乗ると、驚くほど短時間で柳川に着く。特急は車両を揺らしてしゃかりきに飛ばすが、乗客はぼんやり揺さぶられているだけだ。

タイムスリップ、あるいはワープしたみたいな感覚で、西鉄柳川駅に吐き出される。みなれないごく当たり前の地方都市の駅前ロータリー。車なら、観光スポットに直行できるが、駅を中心に歩くというのも新鮮だ。柳川についての体内地図はまるで役に立たない。

大通りから一本引っ込んだ道沿いの老舗の元祖本吉屋に入る。創業天和元年(1681年)の、うなぎせいろむしの老舗だ。さほど大きな構えではないが、店内の雰囲気は長崎の名店吉宗に似て、歴史が感じられる。

大通りに出て駅の方に戻ると、川下りの水路と乗り場があるが、もう営業は終わっていた。隣に神社の鳥居があるのでのぞく、参道は広くて長く、両側の桜もまだ散っていない。三柱神社の境内は、高畑公園と一体になっていて、この地域の桜の名所だそうだ。外国人観光客の姿がちらほら目立つ。しばらく散策したあと、駅近くのカフェに寄って街の余韻を楽しんだ。

掘割も立花邸「御花」も白秋生家も訪ねることのない、僕にとってまったく新しい柳川だった。近頃覚えた美味しいパン屋さん「どんぐりの樹」を家族のおみやげに買いたいところだったが、そこまで足は伸ばせなかった。

まだ明るい筑紫平野を、しゃかりきに走る西鉄特急に揺られて帰る。

 

国東半島の電波少年

吉田さんとの勉強会「宮司の会」も今回で60回。コロナ禍等で出来なかった何回かをのぞけば毎月実施しているから、ほぼ5年続けたことになる。

2005年から始めた安部さんとの「9月の会」が、57回続いたので、それを越えることをぼんやり目標にしていたところもある。もっとも9月の会は、途中で長い中断があったりで10年以上かかってしまった。世代も志向も違う安部さんとの会は、どうしても一方通行的なものになりがちで、僕のモチベーション次第というところがあった。

宮司の会の方は、同世代という共通のベースがありながら経験や志向に大きな違いがあり、それがうまく互いのリスペクトの基になっていて、双方向的な学びが可能だという良さがある。有り難いことに、吉田さんの方も僕と同じくらい勉強会の意義を感じてくれているようだ。

僕は、それなりに関心の幅がひろく、あちこちからネタを拾って小文にまとめることは得意だけれども、探求は浅いし、持続力もない。一方、吉田さんは関心の幅が広いだけではなく、関心領域への打ち込み方や執着力は徹底しており、それゆえ容易にまとめにはいたらない。

吉田さんは、僕の小ネタをひろってそれをまとめる能力に関心をもってくれて、僕の方は、吉田さんの探求力に凄みを感じている、というわけだ。互いに自分にないものをリスペクトしているから、よい関係を維持できるのだろう。

僕は、会を重ねても新鮮なネタを提供することを心がけているが、それは意図的、自覚的なふるまいだ。ねらってやっていることになる。ところが、吉田さんはまったく「天然」の探求者なので、さりげなく話題にすることが、本人の意図とは関係なく僕を驚かせることがしばしばだ。

今回も、60回目にして初めて聞いてびっくりしたことがあった。

吉田さんが子どもの頃、地元大分のテレビ番組の全放送の記録を詳細にとっていたことは、勉強会の中ですでに驚かされたことだった。ところが、今回僕が国東行の話をすると、吉田さんは、中学時代、中国地方や福岡の放送局の電波を求めて、しばしば国東市の本家を訪ねていたのだという。国東半島は瀬戸内海に面しているから、他地方の電波が入りやすかった。

国東半島には鉄道がないので、約50キロ、自転車で片道3時間の道のりだ。記録用のテープレコーダーを荷台に括り付けて、週末の度に国東に通ったという。しまいには、学校をさぼってテレビを見るために本家に居続けたこともあったという。特に文句はいわれなかったが、納屋の一室をあてがわれて、体裁が悪いから町に出歩かないでくれといわれたそうだ。

同じころの年頃の僕が、いくらお寺好きといっても、自転車での遠出で記憶に残っているのはせいぜい片道15キロくらいで、それでも自分ではまれな大遠征と思っていた。どだい行動力と発想のスケールが違うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『押絵の奇蹟』 夢野久作 1929

角川文庫で読む。久作の短編集の新刊や復刊が続々出版されており、角川文庫が夢野作品を手軽に数多く読めるシリーズになっている。

表題作のほかに、『氷の涯』(1933年)と『あやかしの太鼓』(1926年)が収録されている。『氷の涯』を筆頭に中編と呼べる分量があってよみごたえがあるが、どれも長すぎる、書きすぎる、という印象があって、自分がはたして久作ファンと言えるのかどうか疑いをもったほどだった。とにかく思いのままにイメージが浮かびいくらでも書けてしまう人だったのではないか。

『あやかしの太鼓』は出世作だが、乱歩が批判したことで知られる作品。作り手によって恨みの込められた謎の鼓という設定は、作者が芸事の世界に通じているだけに説得力があり面白かった。確かにストーリーはごちゃごちゃしすぎていてわかりにくいが。

『押絵の奇蹟』はその乱歩も激賞したものだが、僕には三作の中で一番印象の薄かった作品だ。歌舞伎役者と押絵作可家の婦人が思いあい、不倫の事実なく二人にそっくりな子どもが生まれたというのが「奇蹟」の内容だが、押絵はわき役を演じているだけで、乱歩のような押絵の幻想談を期待していたので多少拍子抜けした。文章も描写も悪くはないが、道具立ての割には長すぎた。

『氷の涯』が一番良かった。読み直すとしたらこの作品だろうか。シベリア出兵時の大陸の様子も珍しく興味をひくし、政治的な陰謀という謎の要素もある。主人公のキャラクターは性格的に複雑で意外性があり、主人公を助けるロシア娘ーも奔放で魅力的だ。

夢野久作の忌日(3月11日)に手にとったのだが、読了に手間取って今になってしまった。