大井川通信

大井川あたりの事ども

こんな夢をみた(モンゴル人の陳情)

僕は市役所の職員のようだった。役所でモンゴル系の在留の人たちのグループからの陳情を受けていた。いろいろな項目があるが、目玉は、モンゴル人たちが工場をやっている土地の権利関係の問題のようだった。若い職員たちがそんなことを噂していた。

現場に行くと、そこは僕の良く知っている図書館で、その裏の土地にモンゴル人たちの質素な作業場があった。裏の土地に行くには、図書館の入り口を経由しなければならない。今そこが使えなくなっているために、工場の稼働がストップして危機的なのだということだった。

市の方が目的外使用許可を出すのは時間がかかると、この問題の責任者らしき男が説明をしている。しかし図面をよく見ると、モンゴル人の工場に行くには、まだ別の私有地を通らないといけない。問題はさらにやっかいそうだ。

僕たちが交渉しているところに、モンゴル人のおばさんがやってきて、ニコニコして話し出す。他の職員たちも良く知っている人らしく、愛想よく応じている。こういう関係性はいいなと思った。

 

サークルあれこれ(番外編:教育研究会)

記事が遅れがちになり、東京旅行もはさむことから、ある程度回数を稼げるテーマとして苦し紛れに「勉強会・読書会・サークル」シリーズを書き始めたのだが、自分の学びを振り返るよい機会となった。ちょうど新年度から、自分の学びを更新し、ブーストをかけたいと願っているところでもあったので。

いよいよシリーズ最終回。今まで記事にするのを避けてきた仕事がらみの勉強会だ。

僕は、退職までは教育行政にかかわる事務屋をしていた。50代になるとポジションがあがって教員の人事にかかわる権限のある仕事をしなければいけなくなった。県内のある地域の小中学校の先生にかかわる人事だ。

事務屋だから教育の現場のことは実際にはわからない。教員の本音も知らないし、実際にどういう先生がいい先生かもわからない。ただ、教育行政にかかわるような優秀な先生たちとの会話から、彼ら彼女らが自主的な勉強会で鍛えられているという情報を得たので、教師の各種の勉強会をやみくもに見学して回ることにしたのだ。

勉強会には自分でも親しんできたし、自主的に勉強する人たちへの共感もあったから抵抗はまったくなかった。行政の身分で突撃すると警戒をされることもあったが、それ以上に歓迎されてその場で得ることも大きく、参加を後悔するような会はなかった。

2015年の一年間で、自分の担当地域で活動している勉強会には、情報があるかぎりすべて参加したので、それらの成り立ちがいくつもあることに気づいた。その「研究成果」を翌年度当初の管理職相手の研修会で発表して、勉強会のすすめを説くことができた。およそ行政のスタンスとは異なるものだったが、当時教育行政の流行語が「主体的で対話的で深い学び」だったから、教師自身が主体的で対話的な学びの場所(つまり勉強サークル)をもたないで、そのことを子どもに教えられるのかという私見が一定説得力を持っていた気がする。

この教師の勉強会への参加は、僕にいろいろなものをもたらした。一つは、熱心な教師たちに対する尊敬である。少なくとも僕の周囲で自主的にこんなに勉強している行政マンなどいなかった。このことは、結果として教師、管理職、教育長たちからの信頼を得ることに結果して、ポンコツ行政マンが何とか管理職としてのマネジメントを定年まで全うすることにつながったと思う。

もう一つは、レベルの高い学習会やメンバーから刺激を受けて、学びの仲間を得ることができたという点だ。今学芸大にいる大村さんも、この学習会訪問で知り合ったメンバーだ。彼からは今でも大きな刺激をもらっている。

 

 

 

 

 

 

先生たちの勉強会

サークルあれこれ(番外編:哲学講読会)

かつてあった哲学の勉強会の話。

今から10年以上前、数年間(2014~2016)にわたってとびとびで地元の哲学カフェに通った。今人気の哲学風議論のカフェではなくて、哲学書の翻訳文を月二回地道に読んでいく会だった。主催は、在野の哲学者にして市民運動家の清水先生。ドイツ留学の経験がありフィヒテの研究で博士号をもっている本格的な哲学者だ。

最初はカントの平和論を読んで、次はヘーゲル法哲学を読んだ。正式な哲学教育を受けたことのない僕には勉強になる会だった。本文を順番に朗読したあと質疑の中で清水先生が「正解」を説明するという厳格なスタイルだった。ただし、市民運動家としての顔をもつ主宰者は机上の学問を嫌うのか、「政治思想カフェ」を名乗っていて、哲学を読むことは人が集まるためのきっかけと考えているようだった。

メンバーは20代から70代まで。読書会がメインのメンバーはそうでもなかったが、清水先生の知り合いは、各方面の市民活動家が多く、権力批判的なスタンスを自明なものと振り回す雰囲気が濃厚で、それもあって自然に離れていってしまったと思う。

今でも時々街で清水先生と顔を合わせて挨拶することがあるが、勉強会のあったカフェを拠点に子ども食堂をやったり、市民向けの寺子屋を開いたり、実践家としての活動を継続している。尊敬すべき先輩であることには変わりはない。

それより少し前、2011年に、現代美術家の外田さんとその友人のキュレーターの岩本さんと三人で哲学書を読む読書会をしたことがある。安部さんを通じて面識があった外田さんから『菜園だより』の出版記念会で声をかけられたのがきっかけだったと思う。その頃北九州芸術劇場に勤めていた岩本さんには同じころ、多田さん演出のワークショップでお世話になっていた。

テキストは、ドゥルーズ=ガタリの『ミルプラトー』とフーコーの『監獄の誕生』。海外の大学で哲学を学んだ岩本さん主導のレベルの高い会だった。ちょうど安部さんとの9月の会が中だるみしていたころで、一年ばかり熱心に続けたが、仕事も忙しくなった僕が息切れして自然消滅してしまったと思う。

安部さんの遺稿集作成で久しぶりに再会した外田さんから、東京在住の岩本さんを交えてネットを使って会を再開しないかという提案を受けている。二人とも多忙な人たちだだからどんな形で再開できるかは未定だが、ありがたい話だ。

 

 

サークルあれこれ(その7 聞法道場)

地元の街で開かれている浄土真宗の門法道場と出会ったのも、今となってはとても貴重な偶然だったと思う。当時僕は、今村先生の導きで浄土真宗大谷派清沢満之を読むようになってはいたが、刊行されたばかりの全集を持て余しているところもあった。

それで、近所で真宗の有名教授の講演があるという新聞記事の情報欄を見て出てみようと思ったのだ。しかしその年は道に迷っていきつかずに断念。翌年の2010年9月30日に羽田先生の公開講座を聞いたのが初回となる。

この聞法道場自体は、福岡教育大学の科学の教授が一方で真宗の信仰者であって、私財を投じて開いたもので、教授の死後も血族や弟子たちによって運営されているものだ。戦後しばらくの間までは、伝統宗教の側にも、新宗教並みの熱量があった時期があったことが実感できる。羽田先生から、日本で一番聞法の姿勢のよい場所ではないかと評価されるくらい、真面目で熱心な勉強会だ。しかし、この熱量も次世代までは伝わらず、現在のメンバーは70代以上が中心となっている。

勉強会(聞法)のスタイルは、講義者が経典の解釈を原典(経典)に基づいて詳細に解説するというアカデミックなものだ。講義の合間には少人数に分かれてのグループワーク(各班座談)のようなものがある。もっともこれは月例の会のやり方で、年に数回の公開講座は講義と質疑応答の組み合わせだ。

僕はこの公開講座の方に10回参加しているが、初めの頃は、月例会にも半年ほど続けて参加したことがある。この会のおかげで、仏教や真宗独特の用語法や思考方法についてある程度なじむことができただけでなく、伝統教団内部のすぐれた信仰者が何に直面しているかを受け取ることができた。羽田先生やコンウェル先生の公開講座は今年で終わってしまうようだが、自分を叱咤するためにも可能な限り参加を続けたい。

 

 

サークルあれこれ(その6 宗教勉強会)

昨年夏から、金光教の行橋教会に通い始めた。毎月中旬に一回と決めているが、月二回となるときもある。井手先生はその都度拝礼をしてくださるが、今のところ参拝が目的ではなく、金光教を中心とする宗教、思想について話をするのが目的となっている。

僕の方が、この一か月での勉強の成果や気づきについて話したいことがあるので、どうしてもかかり気味に語ってしまう。井手先生も最近の読書や出来事、また前回僕が紹介した本を読んでの感想などと話してくださる。慣例として、2時間程度の訪問となる。

この8か月、15回にわたる訪問で、ぼんやりとした金光教のイメージがいくらかはっきりしてきた。近頃おもいついた考えはこうだ。自分が今まで考えてきた哲学、思想、文学の問題や大井川歩きを始めとする実践の経験を、金光教を軸として集約させてまとめてみたい。それも雑文の集積という形ではなく、より客観的な論文というもので成果物を残してみたい。まずはそれが一体どんな風に可能かを手探りしてみること。

信仰はまだ始まってはいないが、研究を先行させるのだ。信仰はつかみ取りさえすれば、たとえ本が読めなくなっても、認知症になっても続けることはできるだろう。しかし、研究は、まだ気力と体力が充実しているうちしかできないだろう。

ところで、宗教の勉強といえば、村の賢人原田さんと10年に渡って続けている対話も、この範疇に収めることができる。気になって調べると原田さんと出会ったのは10年前の2013年11月14日だ。高校時代に家出をしてから禅寺に駆け込み、20代はカトリックの押田茂人神父の高森草庵で修行した経験をもち、今でも農業等の手仕事全般をこなしながら詩や書や絵もたしなむという破格の人物だ。

70歳を過ぎて条件が整い、若い頃からの構想である「詩を食べる店」を本格的に稼働させている。原田さんのいう詩は、他者の作品でなく自分の中から生まれる言葉(教え)なのだ。大井川歩きの途中での原田さんとの対話も、ならせば月に一回を超えているだろう。原田さんから得たものも大きいと思う。

 

 

『『金光教経典』物語』 福嶋義次 2019

大矢嘉先生の文章に教えられて、福嶋義次(1934-)を読んでみようと思って手に取ったのだが、良い本に出会ったものだと思う。自分史にからめて経典再編の経緯をたんたんと書いた本で、あっさり読めてしまうが、僕にとってはある意味で高橋一郎の本とおなじくらいの衝撃があった。

高橋一郎の本は、金光教がいわば哲学的にどれほど純度が高いものかを教えるものだった。この本は、金光教が教団組織としてその教えの内容に見合う柔軟なものであることを示している。

旧教典は明治時代から作成されてきた教義を昭和3年(1928年)に取りまとめたもので、現経典の三類(歴史的教内出版物)に収録されている30頁ばかりの小冊子だ。著者はその巻頭の文章「神国の人に生まれて神と皇上(かみ)との大恩を知らぬこと」に疑問をもつ。これは、教団の独立に功績のあった宿老佐藤範雄の聞き取りと自身の国学思想に基づく天皇信仰を現すもので、当時の資料にあたって金光大神の教えにはないものだと主張するのだ。

まず、普通に考えると教団の中で半世紀にわたって神聖視されてきたものを容易に改変することはできないだろう。仮にそこに戦前の思想の影響があったとしても歴史的経緯からやむなしとして解釈変更くらいでお茶を濁すのではないか。まして、この文書の作成にかかわったのは著者の曽祖父という血縁であり、教団内に厳然たる権威をもつ人物である。

おそらく日本的風土の中でこうした改変をもたらすとしたら外圧頼みだろう。たとえば敗戦の激震を契機に教義を見直すというふうに。しかし、面目を一新する新教典が出版されたのは、高度成長を経て日本社会と教団の安定した昭和58年(1983年)だ。

戦中派の著者は、経典再編の志を早くから持って、シカゴ大学への留学の際には聖書の編纂過程の研究をする。そして教団の中で議論を巻き起こして、コンセンサスを取り、教団の事業として様々な資料を発掘し、教祖の直筆や聞き取りに基づく1000頁近い新教典を完成させるのだ。

この新教典によって正しく教祖の言葉が保存されるならば、たとえ一時的に教団がどうなろうとも、教えの命が続いていくという強い信念が語られる。第3章には新教典英訳の経緯が記されているが、これも教祖の言葉の普遍性に対する確信があるからこその献身だろう。この教えの普遍性への確信と希求は、高橋一郎の理論的努力にも通じるものだと思う。

 

 

長沢芦雪を観る

数日前から、風邪をひいてしまった。昨年末にあれだけ風邪をこじらせたのに、まただ。東京で美術展が思いのほか良かったので、ここにきて九州国立博物館の『芦雪展』に行ってみたくなった。週末が最終日なので、どこかで時間を見つけていくしかない。

風邪できつくなって午後から家に帰ろうとしたとき、駅で、ままよと逆方向の電車に乗った。悪くなれば途中で引き返せばよい。ところが、こういう時はよくわからない使命感から気を張っているのか、往復でも現地でも調子が良く、かえって症状がやわらいだぐらいだった。やはり芸術の力は偉大だ。

長沢芦雪(1754-1799)展は、これまた思ったより良かった。日本画は色使いが少なく、空白が大きくあっさりしているので、大作であっても見るのに疲れない。体調が今一つの状態だから、これは助かった。

それで何が面白いかというと、何より線が面白く、線をたどるのが気持ちがいい。そしてその線が画面大に作り出す構図の見事さだ。屏風や襖絵の大作でこれが堪能できた。

「富士越鶴図」という小ぶりで縦長の作品があって、そこには、縦に引き伸ばされた富士山と、その中腹を奥から手前に続く鶴の編隊が描かれている。一目見て、これは中村宏ではないかと思った。デフォルメされた富士に鶴の飛行の連続写真が配されている構図は、現代の画家のシュールな感覚そのままだ。

これで、若冲蕭白、芦雪といわゆる「奇想の系譜」の画家たちの作品を実際に見ることができたわけだが、どれも良かった。西洋美術や現代美術などを背伸びして鑑賞しているものの、日本人の奥深くに響く作品は別にあるということだろう。

今回は、若冲の「像と鯨図屏風」も特別に展示されていたが、その造形と構図の面白さ、大胆さは別格という感じだった。

 

 

 

 

 

 

 

こんな夢をみた(学校訪問)

僕はアポをとってT高等学校を訪問する。K教主催の青少年向けイベントのチラシをもっていくのだ。宗教関係は嫌われるが、これはあくまで子どもが主体のイベントだし、公の後援もとってあるからそれは大丈夫と考えていた。

T高校につくと、ひろい職員室の片隅には事務室で知った顔の中高年女性が二人いる。一人は僕のことを覚えていたが、もう一人はまったく思い出せないようだったのが、少し残念だった。

ここで、アポを取った教員の名前を控えていないことに気づいて、とにかく教頭のところに案内してもらう。こういうところが仕事人としてダメなのだと思いながら。

教頭と別室に行くと、予想より愛想よく応対してくれて安心する。僕は昔ここで働いていたことや、その後の経歴を話したりした。われながら自己顕示欲が強いとあきれながら。

円融寺釈迦堂 東京都目黒区 (禅宗様建築ノート12)

東京23区で一番古いという室町建築の重要文化財。円融寺釈迦堂を「禅宗様建築」の仲間に分類することは、素人の僕でも抵抗がある。中世から近世にかけて、純粋に禅宗様の手法で建てられた建物が多くあり、そのように容易に和様化されないところに禅宗様のアイデンティティと魅力があると思う。

一方、和様には禅宗様の手法が取り入れられることも多く、この建物は和様と禅宗様とを折衷した建物というべきだろう。しかし、僕が我が禅宗建築ノートに加えるのは、別の思い入れがあるからだ。

僕の地元だった東京都には古建築の十分が少ない。だから円融寺のことは子どもの頃から気になっていた。だからまだ社会人なりたての頃だろうか、一度訪ねたことがある。私鉄の駅からのアクセスのある居場所にあり、結局見つけられなかった。その時のリベンジをしたいという思いがずっとあった。

今回は渋谷からバスで、すぐ近くのバス停で降りたのだが、かなり広い境内にもかかわらず路地の中に埋まるようにあって、やはり見つけにくかった。そうしてようやく出会えた円融寺釈迦堂の建物の外観は、まさに小ぶりの禅宗様仏堂そのままだったのだ。

僕が禅宗様にファンになったのは、軒反りのある屋根を左右に大きく広げた飛翔感あるフォルムに魅せられたからだ。屋根を高く支える組物や軸部もシンプルで精巧なデザインだから独自の生命力が感じられる。

この基準からみて、円融寺釈迦堂は立派な禅宗様だった。銅板葺の屋根のラインがとても美しい。やはり室町時代の建築だけあって、全体のデザインのバランスに神経が行き届いていて、江戸期の建物(たとえば高安寺観音堂)のようなぎこちなさがない。土間ではなく、床が張られているのも関東地方の禅宗様に見られる手法で、基礎との間に床と高欄の水平線が入ることで、建物の高さが緩和されて、より安定感のある姿となっている。(床や高欄がなく基礎から直接立ち上がったシルエットを想像すると、典型的な方三間禅宗様仏堂のプロポーションそのものになる)

禅宗様特有の細部である詰組がシンプルな出組だったり、扇垂木でなく並行垂木だったり、方三間ではなく奥行きが四間だったり、禅宗様としての不足を見つけることもできるが、正規の禅宗様でないのだから仕方ないだろう。

日差しは暖かいが風のとても強い日で、境内の土ぼこりを避けながら、40年ぶりに実現した釈迦堂との出会いを楽しんだ。

 

 

 

 

 

 

 

おかげと取次

半年ぶり以上に、地元の金光教会にうかがって津上教会長と話をする。ちょっとしたきっかけだった。近所の酒屋で「感謝」という銘柄の焼酎の小ぶりのボトルがあったので、行橋の参拝用にと思って購入したときに、同じものをもって地元の教会に行こうと思いついたのだ。

久しぶりだったが、自由になんでも話せる雰囲気が教会長にはある。おおらく金光教自体に根ざした何かなのだろう。津上教会長は、50代の時に思い立って他の分野も勉強しようと決意されたそうだ。学び始めが遅かったと謙遜されるが、かなりの見識をお持ちだ。1時間ばかりのフリートークで、この間の行橋での学びを振り返りながら、考えの整理をすることができた。

ちなみに津上教会長は、若いころ甘木教会で修行をされたそうだ。甘木教会の初代の安武松太郎氏のこと話してくださった。いつかその言葉に触れてみたいと思う。

無宗教だった僕にとって、金光教の世界を理解するうえでハードルが高いのは、「おかげ」と「取次」というものをどう了解するか、ということだ。どちらも信仰の核心に迫る部分なので、簡単に教わることはできない。あるいは、教えられたとおりにそのまま受け取るというわけにはいかない。

「おかげ」については、もともとの僕の哲学的な世界了解において共感できる部分があった。この世界の存在(と同時に〈私〉の存在)が奇跡であり、恵である。この前提であれば、個別の事実についてもその恩寵的側面を取り出すことは常に可能になる。ただし、常識的な因果を超えた「おかげ」というものも確かにある。それをどう理解するかは今後の楽しみな宿題にしておこう。

「取次」は、金光教の核心的行為だから、無作法に尋ねたりできない領域だ。神に願いを届け、そして神の言葉を伝えるという表面的な説明をするならば、信仰を持たない人にとっては容易に受け付けられないことだろう。もちろん僕もそうだった。だから、この半年間、いわばその問いを「寝かせて」いたのだが、ようやく理解の方向を見出すことができたような気がする。

まず、「取次」の前提として、氏子(人々)の願いがある。こうした個別具体的な願望に執着することは、仏教では否定される。その願望を祈祷し実現を図ろうとする現世利益など「宗教」ではないと考えるだろう。僕もそうだと思ってきた。しかし人間が生きている現場には、様々な夢や願いや欲望が渦巻いている。これらの存在を虚妄だと切り捨てた時に、人間にいったい何が残るというのだろう。あるいは切り捨てることが悟りであり平安であるといったところで、いったい誰がその場所に行けるのだろう。

いったんは、あらゆる願いを引き受けること。僕もようやくプロセスとしてこれが正しいということに思い至った。

では、願いを聞き届けた取次者はどうするのか。今のところの僕の理解を素描してみよう。金光教には、二人の神がいる。あるいは二人の神しかいない。この世界の法や真理であり世界そのものである天地金乃神と、生神金光大神である。生神金光大神の誕生以前は、天地金乃神の思いを正しく言語化することはできなかった。生神金光大神だけが、神と話ができる存在である。

高橋一郎が『金光教の本質について』で、生神金光大神の誕生の前後で世界の意味が変わったという一見驚くべき主張をしているが、この信仰を突き詰めれば当然そういう結論になるだろう。神(世界、法、真理、自然)との通路が初めて開かれたというわけなのだから。

生神金光大神という「翻訳機」によってはじめて神との通路を得た我々は、金光大神の語る言葉のよって神の考えや思いを知ることができるようになった。同時代の氏子には直接それが話されたが、それは伝言ゲームによって弟子たちに伝えられることになる。教義に記録された言葉がそれを補完する。

取次者は、直接天地金乃神と交信できるわけではない。もし神がかり的なものが必要ならば、それができる人間は限られるだろうし、個人の能力には差があるから、すべての教会で同じような取次を提供できないことになる。

あくまで取次者が向き合うのは、生神金光大神の言葉と人となりであり、その言葉を自分に伝えてくれた「親先生」の言葉と人となりなのだ。取次者は、生神金光大神に願いを届け、今までに生神大神から(親先生経由で)受け取ってきた言葉と人となりをもとに、願い主と向き合い言葉をかければよいことになる。

ここに神秘的なものは一つもない。神秘的なものがあるとすれば、天地金乃神と金光大神との通路が開かれたという原初の事実であり、そのことについての信仰を共有するかどうかだけが問われているのだ。

しかし、これだけでは、金光大神との時間的な距離が離れていき、そのために金光大神の言葉(神・世界・自然との原初のアクセス)を生き生きとリアルに保持することは難しくなっていくのは仕方ないだろう。多くの宗教はこうして形骸化していき、散発的に力量のある信仰者の登場によって、教祖に帰るという運動が展開されてきた。

金光教には、この点で優れた工夫を行っている。金光大神と同じ場所(本部広前)で、金光大神と同じように毎日取次を行う「金光様」という金光大神のコピー(血筋もつながっている)というべき象徴的人物を擁しているのだ。教祖を引き継ぐ人物をトップに擁している教団は珍しくないだろうが、そのトップが教祖と同じふるまい、同じ生涯を生きているということはないだろう。

金光大神における「神との原初のアクセス=天地の開かれ」は、現金光様において象徴的に反復されている。厳密に分析的にいえば、神とは天地金乃神と生神金光大神との「二人だけ」である。しかし、金光大神自身もいうように、金光大神につながることで取次者も神になることができる。現金光様が、限りなく金光大神の姿に重なることで、このすべての人が神になる運動は、古びることなく継続するのだ。