大井川通信

大井川あたりの事ども

おかげと取次

半年ぶり以上に、地元の金光教会にうかがって津上教会長と話をする。ちょっとしたきっかけだった。近所の酒屋で「感謝」という銘柄の焼酎の小ぶりのボトルがあったので、行橋の参拝用にと思って購入したときに、同じものをもって地元の教会に行こうと思いついたのだ。

久しぶりだったが、自由になんでも話せる雰囲気が教会長にはある。おおらく金光教自体に根ざした何かなのだろう。津上教会長は、50代の時に思い立って他の分野も勉強しようと決意されたそうだ。学び始めが遅かったと謙遜されるが、かなりの見識をお持ちだ。1時間ばかりのフリートークで、この間の行橋での学びを振り返りながら、考えの整理をすることができた。

ちなみに津上教会長は、若いころ甘木教会で修行をされたそうだ。甘木教会の初代の安武松太郎氏のこと話してくださった。いつかその言葉に触れてみたいと思う。

無宗教だった僕にとって、金光教の世界を理解するうえでハードルが高いのは、「おかげ」と「取次」というものをどう了解するか、ということだ。どちらも信仰の核心に迫る部分なので、簡単に教わることはできない。あるいは、教えられたとおりにそのまま受け取るというわけにはいかない。

「おかげ」については、もともとの僕の哲学的な世界了解において共感できる部分があった。この世界の存在(と同時に〈私〉の存在)が奇跡であり、恵である。この前提であれば、個別の事実についてもその恩寵的側面を取り出すことは常に可能になる。ただし、常識的な因果を超えた「おかげ」というものも確かにある。それをどう理解するかは今後の楽しみな宿題にしておこう。

「取次」は、金光教の核心的行為だから、無作法に尋ねたりできない領域だ。神に願いを届け、そして神の言葉を伝えるという表面的な説明をするならば、信仰を持たない人にとっては容易に受け付けられないことだろう。もちろん僕もそうだった。だから、この半年間、いわばその問いを「寝かせて」いたのだが、ようやく理解の方向を見出すことができたような気がする。

まず、「取次」の前提として、氏子(人々)の願いがある。こうした個別具体的な願望に執着することは、仏教では否定される。その願望を祈祷し実現を図ろうとする現世利益など「宗教」ではないと考えるだろう。僕もそうだと思ってきた。しかし人間が生きている現場には、様々な夢や願いや欲望が渦巻いている。これらの存在を虚妄だと切り捨てた時に、人間にいったい何が残るというのだろう。あるいは切り捨てることが悟りであり平安であるといったところで、いったい誰がその場所に行けるのだろう。

いったんは、あらゆる願いを引き受けること。僕もようやくプロセスとしてこれが正しいということに思い至った。

では、願いを聞き届けた取次者はどうするのか。今のところの僕の理解を素描してみよう。金光教には、二人の神がいる。あるいは二人の神しかいない。この世界の法や真理であり世界そのものである天地金乃神と、生神金光大神である。生神金光大神の誕生以前は、天地金乃神の思いを正しく言語化することはできなかった。生神金光大神だけが、神と話ができる存在である。

高橋一郎が『金光教の本質について』で、生神金光大神の誕生の前後で世界の意味が変わったという一見驚くべき主張をしているが、この信仰を突き詰めれば当然そういう結論になるだろう。神(世界、法、真理、自然)との通路が初めて開かれたというわけなのだから。

生神金光大神という「翻訳機」によってはじめて神との通路を得た我々は、金光大神の語る言葉のよって神の考えや思いを知ることができるようになった。同時代の氏子には直接それが話されたが、それは伝言ゲームによって弟子たちに伝えられることになる。教義に記録された言葉がそれを補完する。

取次者は、直接天地金乃神と交信できるわけではない。もし神がかり的なものが必要ならば、それができる人間は限られるだろうし、個人の能力には差があるから、すべての教会で同じような取次を提供できないことになる。

あくまで取次者が向き合うのは、生神金光大神の言葉と人となりであり、その言葉を自分に伝えてくれた「親先生」の言葉と人となりなのだ。取次者は、生神金光大神に願いを届け、今までに生神大神から(親先生経由で)受け取ってきた言葉と人となりをもとに、願い主と向き合い言葉をかければよいことになる。

ここに神秘的なものは一つもない。神秘的なものがあるとすれば、天地金乃神と金光大神との通路が開かれたという原初の事実であり、そのことについての信仰を共有するかどうかだけが問われているのだ。

しかし、これだけでは、金光大神との時間的な距離が離れていき、そのために金光大神の言葉(神・世界・自然との原初のアクセス)を生き生きとリアルに保持することは難しくなっていくのは仕方ないだろう。多くの宗教はこうして形骸化していき、散発的に力量のある信仰者の登場によって、教祖に帰るという運動が展開されてきた。

金光教には、この点で優れた工夫を行っている。金光大神と同じ場所(本部広前)で、金光大神と同じように毎日取次を行う「金光様」という金光大神のコピー(血筋もつながっている)というべき象徴的人物を擁しているのだ。教祖を引き継ぐ人物をトップに擁している教団は珍しくないだろうが、そのトップが教祖と同じふるまい、同じ生涯を生きているということはないだろう。

金光大神における「神との原初のアクセス=天地の開かれ」は、現金光様において象徴的に反復されている。厳密に分析的にいえば、神とは天地金乃神と生神金光大神との「二人だけ」である。しかし、金光大神自身もいうように、金光大神につながることで取次者も神になることができる。現金光様が、限りなく金光大神の姿に重なることで、このすべての人が神になる運動は、古びることなく継続するのだ。