大井川通信

大井川あたりの事ども

道玄坂の100年(つづき)

先月18日の父親の生誕百年の記念日の記事で、渋谷道玄坂のカフェでお祝いをしたことを書いた。その文を、次のように結んだ。

「渋谷にあふれる人の波を見ながら、この中に父のことを知る人が(僕以外)誰もいないということを、当たり前でありながらとても不思議なことのように思って、ぼんやりしていた。」

素人の作文とはいっても、ある程度の首尾一貫性や起承転結といったルールは大切だ。そのうえで、通り一遍でない独自の発想や切り口、感覚を盛り込む必要がある。渋谷のカフェでの感情の動きを反芻してなんとかひねり出したのが上の文章だが、その不思議さの中身について自分なりの答えがあるわけではなかった。ちょっとかっこいいことを言っただけではないか、と反省する気持ちもあって、ひっかかっていた。

ところが、井手先生の義理の父親(前平尾教会長)の3回忌のお祭があると聞いて、ふと閃いた。誕生日は僕の父親とさして変わらないものの、生まれ育った土地で大勢のゆかりの人々に祈られるというのは、父親とはまったく違う。

それから大井川歩きの経験が頭に浮かぶ。先祖代々の土地で暮らした人々は、その土地で聞き取りすれば、さまざまな記憶を呼び覚ますことができるのだ。大井川周辺の聞き取りで僕自身がそれを体験してきた。

つまりこういうことだ。かつての日本人の当たり前の暮らしの中では、100年前に生まれた人の記憶をその土地に住む人々の多くが保持しているという事態がごく自然だったのだ。土地の風景が一変し、そこに集まりごった返すすべての人が、100年前にここで確実に生まれた父親のことを知りもしないという事態は、この観点からみれば驚くべき不思議な出来事といえるのである。