あらためて考えてみると、父は書いたものをほとんど残さなかった。今のように誰もがSNS に手を出すような時代ではないから、一般の人が何かを書いて発信するということは稀だった。ただし、父は文学好きで、小説以外でも思想や詩歌、古典についての専門書も読み込んでいたし、原稿用紙や日記帳に書き物をしたり、短歌を作ったりしている姿を見たことがある。書くことを苦にしていなかったし、文章は巧みだったと思う。
勤務先の工場で、工場長クラスの人にあいさつ文を頼まれて原稿を作っていたこともあった。社内では出世を望まず平社員のままだったが、本好きのインテリという評価はあったのだろう。全国的な社内報に、顔写真入りで長めのエッセイを書いたことがある。
なんでも整理してしまう父親だが、さすがにその社内報は取ってあって、結局それが唯一の「遺稿」になった。数日分の日記の抄録という体裁をとって、季節の移り変わりや家族の様子、短歌集の感想などを交えた、実に達者な素人離れしたエッセイである。永井荷風の『濹東綺譚』が好きでよく朗読していたが、なるほど荷風張りの名調子だ。
知人が自分の父親の告別式参列のお礼に、小さな文集を作って配布したことが印象に残っていた。知人の父親が実績ある教育者だったからできたことだが、僕もそのアイデアをマネすることにした。
といっても僕の父が残したものは、この社報の文章と、手書きの原稿が一枚だけだ。行分けされた詩のような原稿は、葬儀の朝に、偶然中島敦の小説の一節を書き写したものであることが判明した。その二つの文章を、薄いグリーンの上質紙にコピーして、葬儀の参列者に配布することにした。
参列者は父親と付き合いの長い親戚がほとんどだから、手書きの文字と顔写真入りの古い記事で、父を偲んでくれたのではないかと思う。父も若干得意だったのではないか。
先月、渋谷道玄坂で父の生誕100年のお祝いをしたものの、父に関する情報の少なさに、もう少し自伝めいた記録を残しておいてくれたらと残念に思う気持ちもあった。十分書き残す力のあった人だからだ。しかし、そういう文章があったとして、果たして僕はそれを読んだだろうか。父親からもらった手書きの手紙はかなりあるが、今まで僕はそれを読み返すことはなかった。
親子とは、たいていそんなものなのだろう。僕は自分の書いたものを取っておく習慣があるから、紙ベースでもかなりの文章が残っているし、このブログ記事だけでも、すでに2500以上の記事がある。もしうまく伝われば、自分の子どもがそれを読んで、僕の人生を再構成する手がかりにはなるだろう。しかし、子どもはそんなことに興味を持たないだろうと思う。
それ以上に、僕自身も(特に子どもに)何かを残すという気持ちを持っていないことに気づく。自分の経験や過去を書いているとしても、それはあくまで自分のためだ。父がほとんど何も書き残さなかった理由が少しはわかった気がした。
今日で父が亡くなって18年。