大井川通信

大井川あたりの事ども

『お菓子とビール』 サマセット・モーム 1930

モーム(1874-1965)の小説は面白い。僕に小説を読む楽しさを与えてくれる数少ない作家のひとりだ。5年ばかり前に、読書会の課題図書をきっかけにまとめて読んだ時期があったのだが、その後で思いついて買っておいた文庫本の頁をめくってみた。

とにかく登場人物一人一人が生きている。語り手の作家のアシャンデンにしろ、友人作家のロイにしろ、ロイが評伝を書こうとしている大作家ドリッフィールドにしろ、そしてもちろんその妻のロウジーにしろ、とても個性的で魅力がある。作家のタニマチであるミセス・バートンや、晩年のドリッフィールドの世話をやく新妻などは、(あるいはロウジーの愛したケンプ殿も)小説の中では損な役回りを引き受けてはいても、キャラクターとして生命を宿していて、単純な悪役にはなっていない。

よけいなことだが、最近の日本の本屋大賞に選ばれるようなベストセラーは、設定とストーリーで人目を引くものはあっても登場人物に厚みが感じられない。周辺の人物になるとなおさら役割だけのカキワリだ。いったい何が違うのか不思議だ。当たり前に言ってしまえば、人間と人間がおりなす事象に対する視力とその解析度の圧倒的な違いということだろうか。

一方、モームのこの小説は、ストーリーだけ抜き出すとどこが面白いのかわからない話だ。アシャンデンは、ロイから、ドリッフィールドの評伝を書くための情報提供を求められる。アシャンデンが少年時代と学生時代に、同郷のドリッフィールド夫妻とつきあいがあったからだ。承諾したアシャンデンは、アシャンデンの旧宅にロイと一緒に未亡人を訪ね、その地で思い出のメモを書くことを約束する。

ここまでで小説は終わる。アシャンデンがどんなメモを渡して、ロイがどんな評伝を完成させるのかもわからない。ただ、このなんていうことのないストーリーのあいまに、アシャンデンの少年時代の出会いからドリッフィールド夫妻に関する思い出が差しはさまれる。

この過去と現在との時間の行き来が自然で、人がどんな風に過去を生きているか、それをどんな風に思い出して今とつなげているのかを、さりげなくしかし高度な形で示唆しているのだ。その中で、作家ドリッフィールドの奇妙な人格と、その妻ロウジ―の発散する魅力が、体裁重視のイギリス社会を背景にして見事に描き出されていく。

クライマックスは、医学生アシャンデンとロウジーとの関係が深まる場面だろう。しかし回想は閉じられ、すべてが過去に消え去ったと思わされた瞬間に、思わぬ形で「ハッピーエンド」が訪れる。

タイトルもそうだが、全編に明るさと軽さがある。深刻ぶらずに、しかし人間というものの真相をぶれずに描きつくす筆は変幻自在だ。

 

 

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