大井川通信

大井川あたりの事ども

猫と私と、生まれなかった兄と

休日の昼間に、通信教育で四教科の試験を受けた。ネットで該当のページを開いて待機していると、指定の時間に問題文が見られるようになり、50分で回答を作成する。便利な世の中になったが、本当に久しぶりの試験で、だいぶ消耗してしまった。

と同時に、頭に変なスイッチが入り、活性化してしまったところもある。夜の散歩の途中で、不意にこんなことが思い浮かんだ。

僕は、死んだ人のことや、死にゆく人のことを考えている。しかし、僕自身もやがて死にゆく存在であり、いずれ鬼籍に入る人間だ。他者や外国人といっても、同じように言語を使い、思考し、喜怒哀楽をもつ存在だから、まあ似たようなものだ。自分が自分について考えるような、微妙で繊細な思考は、今の僕には耐えられない。

もっと明確に異なるスタンドポイントがなければ、暮らしの中で考えをつないでいくことは難しい。それには猫がいいだろう。本当は、トンビでもゲンゴロウでも、路傍の石仏でもいいのだが、やはり身近な家族といえる九太郎がいい。

彼なら、言語を持たず、自意識の構造も僕たちとはだいぶ違っているだろうし、経験する死の意味合いにも違いがあるだろう。

これで、自分から距離を置いて思考するよりどころが手に入った。でもまだ足りない。もっと遠くから、僕をみすえる場所がほしい。

僕には、生まれなかった兄がいたらしい。まだ両親が子育てできる準備が整わなかったので、中絶せざるを得なかった事情を、間接的に聞いていた。もし彼が生まれていたら、僕より何歳か年長の彼がどんな人生を経験したかは、ばくぜんと想像することができる。

またそうなっていたら、両親の経済的な事情からいって、僕は確実に生まれていなかっただろう。(そんな極端な想定でなくとも、受精のタイミングが少しずれただけで僕は生まれなかっただろうが)

だから、生まれなかった兄について考えることは、生まれなかった僕を考えることでもある。生まれなかった僕は、当然、死にゆくことも、実際に死ぬこともできない。これは、想定できる中では、今の僕から一番遠い僕だ。

そんなわけで、僕は、猫の九太郎と、生まれることのなかった兄のことを考えながら、僕自身の生や死について考えをすすめようと思う。

ここまで考えたら、ちょうど家の玄関が見えてきた。