大井川通信

大井川あたりの事ども

あるスターの死

西城秀樹(1955-2018)が亡くなった。今までファンだったという話をほとんど聞いたことはないのだが、妻が相当ショックを受けて、喪失感にかられている。不謹慎な話だと思うが、昨年、疎遠だった実の兄が亡くなったときより、衝撃が大きいという。芸能関係では、ペヨンジュンが結婚した時以来のことだ。

僕も彼の昔の動画を見続けているうちに、妻の気持ちがわかってきた。僕と妻は同い年なので、彼のアイドルとしての70年代の全盛期を、小学校高学年から高校生までの間に体験している。僕は父親の考えで娯楽番組をあまり見せてもらえなかったのだが、それでも同時代の子どもたちと同じ空気を吸っていたから、毎回彼の新曲を心待ちにする気持ちは共有していた。これは、世代が違う人にはわからないだろう。

今はネットでたくさんの動画を見ることができるから、今回のニュースをきっかけに、当時の映像にくりかえし浸ることで、あの時代をありありと思い出す。そのために、彼の死という事実が、二度と戻らない自分たちの若かった時代という思いと重なって、喪失感を加速させるのだろう。動画のコメント欄には、そうした同世代の人たちの思いがつづられている。

だからこれは、テクノロジーによって新たにつくられた喪失感だといえるのかもしれない。本当は、40年前に終わったことで、その終わりを納得するだけの十分な時間はあったはずなのだ。しかし、今は、40年前のテレビ番組を手元で再生できる時代になった。こうしたテクノロジーと人間の欲望の行き着く先には何があるだろうか。

ワルターベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』(1940)の中に、こんな記述があって、気になっていた。「人類は解放されてはじめて、その過去のあらゆる時点を引用できるようになる。人類が生きた瞬間のすべてが、その日には、引き出して用いうるものとなるのだーその日こそ、まさに最終審判の日である」 

宗教的な背景はともかくとして、ベンヤミンは、人間の根本の望みは、過去の瞬間のすべてを手にする(肯定する)ことにあるのだと喝破する。人は死んではならないように、人の生きた時間の全ても失われてはならないのだ。それがどんなに自然に反することであっても。

昔話を一つ。野口五郎が当時僕の好きだった「むさしの詩人」という曲を歌ったあとに舞台装置が回転して、西城秀樹が「ブーメランストリート」を歌い始めたテレビ番組の場面が、記憶に焼きついている。以前なら調べようもなかっただろうが、ネットがあるから、簡単にその時期が特定できた。41年前の春、受験も終わり、高校生活に期待しながら、のんびりテレビを見ている自分の姿が、そこに浮かんでくる。