大井川通信

大井川あたりの事ども

ガレキの拾い方

ベンヤミンの勉強会の準備が難航している。少しでも自分なりのベンヤミンの理解を示せればという野心をもっていたが、僕がもっているのはそれこそ断片的なイメージに過ぎず、とても専門家の前に提示できるようなものではない。そもそも参加者が聞きたいのは、僕のベンヤミン論もどきではないだろう。

そんな自己顕示はやめて、あくまでベンヤミンになり切った姿を自己解説するという一参加者のスタンスに絞った方が、自分の提案した会の趣旨にあっているし、むしろそううでなければならないということにようやく気付いた。

参加者がベンヤミン扮する(彼の批評を身体的に模倣する)という会の企画自体が、課題本への一つの批評となっているのだから、そのことの意図を明確に説明することが、まず一点。

ベンヤミン論を読んで、それを手がかりにベンヤミンのテキストに入っていくことは、読み手なりのベンヤミン論をつくることにつながるかもしれないが、そういう論から論への連鎖は、いたずらに手間がかかるばかりで、袋小路にはいっていくのではないか。

彼の差し出す言葉やイメージやしぐさ(ベンヤミン生の破片)を拾って、自分の現実に駆け込んでいくことこそ、彼の思想にふさわしいのではないか。

次に、僕にとって忘れがたく、何度も反芻してきたベンヤミン文章の断片を引用することで、僕が彼から何を受け取ったのかを示すことにする。「そこをたらたらとくだってゆくと、ぼくが毎夜通った女の家がある・・かの女がどこかへ引っ越していったときから、門のまえに立つたびに、ぼくには、そのアーチが、まるで聴覚をうしなった耳介のようにみえた」(『一方通行路』から「中国物産店」の一節)

かつて、女性と付き合っていた時には、このアーチが見えてくるとどれほど心が高鳴った生の充実を感じていたにちがいない。そのまったく同じアーチが、間がぬけて虚ろな、生気を失ったもの(廃墟)になっている。しかし、その前に立って思い出すことで、その場所にもう一度命を吹き込むことができる。

大きな歴史的・政治的事件ではなくて、こんな身近な場所にこそ、世界体験の圧縮された原形(ガレキ化と救済)を見出す視力に、僕は驚かされたのだ。