大井川通信

大井川あたりの事ども

希望をもつ方法

次に最晩年の『歴史の概念について』からの引用。「人類は解放されてはじめて、その過去を完全なかたちで手に握ることができる・・・人類が生きた瞬間のすべてが、その日には、引き出して用いうる(引用できる)ものとなるのだ」

この原稿は、ベンヤミンが「およそ20年のあいだ胸の内にしまっていた、それどころか自分自身に対しても隠していた考え」であると手紙に書いていることを、今回の課題本で知った。つまり、ここでの考えは、当時の批評や学問の文脈にのらないため、大手を振って発表できることではなかったということだろう。

これは、とてもよくわかる気がする。この作品のなかには、クレーの絵「新しい天使」の解釈が描かれているが、うずたかく積みあがるガレキの前になすすべなく未来へと吹き飛ばされるという「歴史の天使」は、近代以降の世界を生きる人間の、正確でありのままの姿だ。特別に優れた歴史観というよりは、誰もが共感できる普遍的なイメージだと思う。

すると、歴史の天使である人間は、目の前のガレキを組み立てて、過去の廃墟に命を吹き込むことができるだろう。それが終われば、次のガレキを手に取って。もし無限の時間があるならば、原理的には、全てのガレキをつなぎ合わせて、人類の生きた時間の全てをよみがえらせることができるだろう。

ベンヤミンの描くこの解放のイメージは、決して恣意的なユートピアではなくて、近代以降の人間が構想せざるを得ない必然的なビジョンだと思う。

以上、ベンヤミンの二つの引用で、目前の体験の中の破片や亀裂を見抜く視力と、遠大な解放のビジョンとの二点を取り上げた。同世代の日本の批評家たち(芥川龍之介小林秀雄林達夫花田清輝など)を読み比べてみると、同時代のガレキの山と向き合う共通の感覚と問題意識を持ちながら、この二点の遠近の奥行において残念ながら及ばない気がする。(むしろ戦後の寺山修司の文章にベンヤミンに近いものを感じる)

ここにベンヤミンの新しさとアドバンテージがあると思うのだが、100年近くあとを生きる現代人には、ベンヤミンの視線は当たり前のものになりつつあるのかもしれない。一つには、身近な経験に重きを置き、それと世界大の事象とを等価にみるような感覚(世界系)において。もう一つは、いまある現実の背後に、あったかもしれない可能世界(無数の世界線)を感受する感覚において。