大井川通信

大井川あたりの事ども

『懲役人の告発』 椎名麟三 1969

旅先の古書店の100円の棚で見つける。外箱を外せば本自体の状態は悪くない。ページ数も手頃。旅の終わりには読み切ってしまった。

僕は椎名麟三(1911-1973)の小説は、これまで面白く読み継いできたが、この作品は初めて失敗作ではないかという気がした。実験的な手法は理解できるのだが、どうもうまく主題とかみ合っていない。同じく実験的でも、フォークナーやウルフの作品のような迫力がない。

この小説は少なくとも三つの層から出来上がっている。基底にあるのは、交通事故で少女をひき殺してしまって懲役人となった田原長作の経験する世界だ。モノたちの支配する世界で、「死んだような仕方で」生きており、人々の身体も「棒」として、人々の流す涙も「水」としか受け取れず、工場の機械から追い立てられる。殺した少女の面影と重なる福子の自由奔放な振る舞いによって彼女への「愛」に目覚める。【死者とモノの層】

長作の父親長太郎と、その弟である叔父長次との間には強い確執があり、これが物語を展開させる第二の層を形成する。長太郎は親の寵愛を受けて学校を卒業後県庁の課長になったが、株に失敗して零細の菓子屋を営んでいる。その妻すえも料理屋の女将からの没落を余儀なくされている。

一方長次は、実家では親から差別され、戦場からの復員時も兄長太郎から無下にされた恨みをもつ。工員からのし上がって金属工場の社長となり、その妻君江も女工からの成り上がり組だ。力関係の逆転して両夫婦にお互い思うところはあるだろう。それだけでなく、長作は叔父の工場の工員として世話になり、子供のない叔父夫婦はすえの連れ子を養女に迎えているという複雑な事情が加えられている。【世俗的な愛憎の層】

この二家族の関係はきわめてリアルであり、愛憎も具体的で共感可能なものだ。長作は叔父からいたぶられるし、美しく成長した12歳の福子(女性として商品価値をもつ)をめぐって両家族の奪い合いが起こる。この愛憎劇が、基本的には長作の死んだような目を通して書き留められるのだ。

しかしそれだけではない。しつけを受けずに我儘放題に育てられた福子は、人に平気で唾をかけたり放尿したり、噛みついたりするのだが、その彼女を無理やり「自由」の象徴にまつり上げることで展開する物語の最上層があるのだ。【自由をめぐる実験の層】

工員のリアリズムを持つはずの長次が、この子育てを「自由」のための実験だというのも、妻の君江が賛同して無制限の愛情を注ぐのも、理解しがたい。人生の辛酸をなめて「無」を達観する長太郎が、自由のヒロイン福子に一目ぼれして生きがいを取り戻し、崇拝のあまり罪を犯して自死するのも無謀ならば、その報を受けた長次が福子を殺してしまうというのも、なんの説得力も必然性も感じられない唐突な展開だ。

この第三の層において、壮大な自由をめぐる観念の劇を仕組もうとして、見事に空振りしてしまったということではないだろうか。

たまたま僕の目に留まった70年代の評価では、この作品を戦後文学のベスト10に押す文学者が複数存在した。わが岡庭昇も著書のなかで「みごとな表現的達成」と賞賛しているがどうだろう。部分的な評価をつなぎ合わせただけのような批評に思える。多くの椎名作品が文庫化されたにも関わらず、この作品が一度も文庫にならなかったことが、読者の側からの作品評価を示しているような気がするのだが。