大井川通信

大井川あたりの事ども

日本建築の特質と心 枝川裕一郎 2017

全体ありき、ではなく「部分から全体へ」という考え方を基礎にして展開される日本建築の特質を、実例をあげながら説明する。

それを Japanese Identities として日本文化論と直結させるところはやや単純化のきらいがあるが、諸特質の列挙は網羅的で、「自然との共生」や「非対称性」など一般にも聞きなじみがある特質以外にも、「小空間への傾注」「全容を見せない」「奥の概念」等、具体的で説得力のある説明がくわえられる。

これは、著者が単なる研究者ではなく、三菱地所で大規模な再開発を実際に手掛けた技術者のためだろう。隣接住民等の納得を得ながら設計を進めるために、現代においてもこれらの諸特質を勘案する必要があるというのだ。

そのほか、具体的な設計手法への言及も面白い。例えば「サンプリング&アセンブリー」は、歴史的建造物の要素を採寸、抽出し、新しい建造物のデザインの中で再構成するという方法だ。ここでも、部分から全体へ、という発想によって伝統的な街並みとの調和が図られている。

 

自由の彼方で 椎名麟三 1954

語り手は、1927年に数えで17歳の若き日の自分山田清作を「死体」として回想を始める。第一部では、親元を家出して、大阪でコックをしていた当時の不良少年仲間との交渉が語られる。第二部では、1929年に神戸で私鉄の車掌となり、非合法の共産党員となって労働運動に奔走。第三部では、逃走生活の果てに逮捕、投獄され、出所後に姫路のマッチ工場で困窮の生活を強いられる。

次々に語られる女性関係は、ひねくれてねじれた欲望によるものだったり、衝動的なふるまいであったりと、無残な印象を受ける。それは共産党員になって労働運動を行っているときも、転向後の工場労働者のときも変わらない。主人公の精神的な成長や朋輩との交流の深化という物語とは無縁の、ぶつ切りで単独の事実が無慈悲に並べられているだけだ。

これは、自分の姿から魂を抜いてあくまで「死体」として眺めるという方法によるものだろう。では、なぜ死体なのか。未来に向けて、他者とともに現実の改変に努めるのが生きた人間の姿であるというなら、若き清作は、その未来という場所を持たないのだ。彼は大阪のコック時代に、喧嘩の時に自分で頭からガラス窓に飛び込むことを繰り返し、「いつのまにか、意識的に、自分の血と死を、相手の自由を奪う手段にするようになっていたのである。」

こうして、清作の「死体」としての行動原理は、粗暴な衝動によるもの以外は、突然の共産党員の名乗りのように、自らをさらに死へ追いやることで、現実との関係を作るというものになった。第三部では、精神的、肉体的に追い詰められて、毎夜首吊りの衝動にかられる「廃物」として死体そのものにいっそう近くなってしまうのだが。

しかし、だとしたら、末尾で予告される清作の死と天国での復活とは何だろうか?あるいは、過去の自分をかたくなに拒否するこの語り手の存在とは?

 

 

無邪気な人々 椎名麟三 1952

緒方隆吉が妻弘子と住む二階屋に、突如赤ん坊が届けられる。空襲で死んだはずの弘子の前夫が、弘子との間の子であるという戸籍とともに置いて、立ち去ったのだ。

敬虔なキリスト教徒の隆吉は、事態の不可解さとともに、重婚を犯した罪におののく。

赤ん坊の夜泣きに苦しむ間借人の久保健三は、いきがかり上調査に乗り出し、事実を突き止める。前夫塚原も再婚したが、妻勝子と上手く行かず、勝子が生んだ子の出生届で弘子の生存を知り、戸惑いながら赤ん坊をあずけたのだと。

しかし、その事実は緒方夫婦には伝わらずに、「誤解」に押しつぶされるかのような悲劇が結末で暗示される。

周囲の人々を振り回しながら、何者からも自由で不逞な赤ん坊の肉体が、物語の中心に据えられている。

深夜の酒宴 椎名麟三 1947 

刑務所のようなアパートで、おじ仙三からの理不尽な責め苦に耐えて絶望を生きる須巻。収監者である住民たちは、困窮の中で、徐々に死にむかっていく。戦時中、挺身隊で働く工場の工員と付き合った(僕は自分の母からそんな思い出話を聞いている)という若い女加代だけは、そのむき出しの肉体でアパートの絶望にかろうじてあらがっているようだ。

戦争で橋の欄干の鉄材が供出されてしまったために、逃げ惑う多くの空襲の避難者が川に落ちて水死した、という細部の記述も今となっては貴重な証言だろう。

共産党員として逮捕され獄中で気がふれたという須巻は、「思想と名の付くものは、すべて愚にもつかないものですからね。・・・忘れた、それでおしまいです。そしてなぜあのときあの思想に自分はあのように夢中になっていたのだろうと不思議がるのがせいぜい関の山ですよ」と吐き捨てる。

しかし、今読むと、この壊滅的な敗戦をうけての透徹した認識が、すぐに忘れられて、50年代、60年代が政治と思想の季節となったことが不思議にも思える。僕にも聞き覚えがあるのは、そのあとの、例えば連合赤軍事件後の思想への鋭い懐疑の言葉だ。そして、以後思想への信頼は回復することはなかった。人間を思想から決定的に遠ざけるのは、絶望ではなく、飽食ということだろうか。

 

 

おっさんち

母の見舞いもかねて、帰省する。

隣町の姉のマンションに一泊して、姉と実家まで歩いたとき、小学生の頃通った駄菓子屋があった近辺を通りかかった。帰ってからネットを見ると、バラックの小屋のような店や、店主のおっさんの風貌まで懐かしむ書き込みや記事を見つけることができた。

作業着姿のやせた老人だったおっさんが店をたたんでから、40年はたつだろう。

しかし今でも、店内の壁一面につるされた玩具をありありと思い出すし、それは僕だけではないらしい。店の右奥に座るちょっと威厳すらあるおっさんの姿を書いている人もいて、そうそう、と膝を打った。

死後に残せるのは、自分のために集めたものでなく、他者に与えたものだけだ、という言葉を読んだ記憶がある。

町外れの小さなおっさんの店を思い出すと、本当にそうだな、 と心から思う。


 

自転車で

父は退職まで、隣町の立川の工場に自転車で通っていた。僕が家を出た後のことになるが、府中の再就職先まで、8年間やはり自転車で通勤したようだ。小学校の頃は、月に一度几帳面な父と一緒に、自転車をピカピカに掃除をするのが習慣だった。

父が定年になった年齢となって、僕の勤務先が住居と同じ市内となり、天気の良い日、思い切って自転車で通勤してみることにした。長男が就職して、彼の自転車が一台空いたという事情もある。おそらく購入してから一度も掃除していない錆びだらけの自転車のペダルをこいで、川沿いをひた走る。父は、立川までおよそ3キロ、府中までは4キロの道のりを住宅街を抜けて走っていた。僕は7キロ近く走らないといけない。上空にはトビが舞い、川面にミサゴが急降下するような、桃源郷のような風景の中を。

 

夢中の教育論

夢の中で、見知らぬ校長と話をした。大学受験の話題で自分より一歳年少だとわかる。校長は友人との毎週の勉強会も欠かさないという勤勉な人で、さっそく僕は問いかけてみた。今の公教育の問題点は何ですか?・・・常識的な彼の答えに、僕は反論する。現象の説明はそうでしょうが、困難の本質は別にあると思います。それは本来多数の子どもを一人の教師が相手にする、一対多数のコミュニケーションであり、うまくいくほうが不思議ではないでしょうか。しかも、扱いやすい一部の子どもを相手にすればよいのでなく、すべての子どもを対象にしないといけません。

目が覚めて驚いたのは、夢の中にもかかわらず、シラフとほぼ変わらない議論をしていたことだ。夢の中では、事物も言葉もひどくゆがんでいる方が普通なのに。

この一年間、とびきり優秀な若い教師の友人と百通ものメールのやりとりで、教育や学びについての議論を尽くした。上記の教育論は、なんども論議の俎上にかけ、自分の中で納得と確信を深めたものだ。だからこそ、バリアを突破して夢の世界にまで貫通し、そこでも同じ姿を現したのだろう。

理髪店と神社

辞令交付の前日、髪が伸びているのが気になって、夕方、職場近くの「床屋」に思い切って入ってみた。髪を切られるのが苦手で、昔ながらの理髪店でそれも行きつけのところでないとだめだ。職場の地名が店名になっているのも何かの記念になるだろうと、扉を開くと、閑古鳥が鳴いていると思いきや、町はずれの店なのに意外に明るく活気がある。客が多いというわけでなく、家族が多いのだとすぐに気づいた。

髪を切るのはもう老人といっていい主人、髪を洗うのは奥さん、顔を剃るのは娘さん、奥さんと同年配の女性も手伝っていて、孫たちも遊びから帰ってくる。

腕もサービスもよく、もっと早くから来ておけばよかったと後悔した。しかし、この町で働くことはこの先ないだろう。外に出るともう薄暗い。お店の隣には神社があって、鳥居の前で、仕事を終えた娘さんが子供二人を遊ばせている。こちらに気づくと、小さく会釈してくれた。

大井炭鉱

家から歩いて10分ばかりの里山の中に、小規模な炭鉱跡があることは、10年近く以前の聞き取りで知っていた。谷に沿って山に入ると、今は小さな畑地になっているが、周囲にはボタが落ちていたり、赤水がたまっていたりして、かろうじてその痕跡をうかがうことができる。しかし、昔から知る人がいうように、すっかり当時の姿を消してしまっているようだった。

それが、ネットで久しぶりに炭鉱好きの人のブログを開いてみたら、次々と新しい坑口などの遺構を見つけていて、そのコツまでが書いてある。モデルや先達が存在する力は大きいもので、地元の小ヤマをもっと徹底して調べようという気にさせてくれた。

谷にそってさらに数十メートル斜面を上がったところの藪の陰に、ひっそりと坑口は姿を隠していた。幅は2メートル程度、奥には台形に組んだ枠も残っていて、傾斜して地中に向かっているが、底は土砂でふさがれて水が溜まっている。

閉山から60年。創業は10年に満たず、数十人の炭鉱夫が働くだけの規模だったようだが、まぎれもなくこの土地に奥深く刻み付けられた歴史である。坑口は、今開かれたばかりのように生々しかった。

 

卒業式雑感

次男の特別支援高等学校の卒業式に夫婦で出た。大学4年の長男に声をかけると意外にも、式に参加するという。そういえば、次男の中学の卒業式も、家族全員で参加したっけ。神妙に立つ次男を取り囲んで、かかわってくれた中学の先生たちが順番に声をかけてくれたことを思い出す。普通高校の卒業式となると厳格なものだが、次男の高校の卒業式は、先生の涙や謝恩会などもあって、なごやかな雰囲気だった。

今年は、二人の子どもとも学校を卒業して、社会人になる。自分のときもそうだったが、本人にとっては新生活が気がかりで、卒業式など迂遠な儀式に過ぎないかもしれない。しかし、親にとっては、自分たちの子育ての終わりを実感し、納得するための重要な区切りなのだ。

長男の大学の卒業式となると、さらにあっけないものとなるだろうが、やはり顔を出してみようと思う。僕の父親は、卒業式前日に、自分の署名に「曇天寒日大学卒業前日」と書き入れた本をプレゼントしてくれた。長男の卒業式は偶然、僕の卒業式の33年後の同じ日にあたる。長男には、どんな本を贈ることにしようか。