大井川通信

大井川あたりの事ども

神社という場所

昨日の展覧会評で、神社は非日常の場所であるという、当たり前のことを確認した。問題はその中身である。僕は、大井川歩きで、地元の小さな神社やホコラに足を運ぶ中で、これらの場所の意味を確かめていった。香椎宮のような巨大な神社のもつ意味合いも、かえって素朴なホコラからながめたほうがよく見えるのかもしれない。

まず、そこは異世界へとつながる情報端末である。規模の違いはあっても、この基本的な機能は変わらない。何よりも、この世界を超える祈りの場所なのだ。

すると、この世のしがらみを超える場所として、人々が自由にアクセス、往来できる場所となる。お参りという形で、その中心的な施設まで誰もが自由に出入りできるフリースペースとなる。

さらに、そこは歴史のタイムカプセルである。この世界と時代を超える場所として、様々なモノが集積する。鳥居や本殿はもちろん、様々なホコラや石碑、記念碑など、各時代からの贈り物が雑多に詰め込まれている。

そのために、そこは土地のランドマークとなる。周辺の開発や地形の変化を超えて、そこにあり続ける存在だ。

そうして、そこは自然のビオトープでもある。境内は、神木等として鎮守の森をとりこみ、池や庭という設備を持って多様な生き物の棲み家となっている。

こんな風に、神社は多様で複雑な機能を担った、一筋縄でいかない場所となっている。ここに新たな意味作用を付加させるには、相当の戦略が必要になるだろう。